02




 その短く浅い夢は幾度も繰り返された。

 ――白い世界の中で、狡噛は走っている。上を見ても下を見ても、右を見ても左を見ても、ただただ広がる白の色は、清廉と呼ぶよりは退廃的で、まるで死人めいたその色に世界は封じ込められていた。

 逸る焦燥に背を焼かれながら、狡噛は地を蹴り懸命に駆ける。地は確かな心強さで狡噛の足元に広がっていたが、周囲に流れる霧のせいで距離が全く掴めない。

 前方に目を凝らす。霧の向こうに背中が見えた。大声を上げるが、背中はこちらを振り返らない。

 駆ける足に力を込める。息が上がり、横腹に痛みを覚えた。それでも距離は縮まらない。遠くの背中は一向に遠く、そればかりか周囲の霧が視界を閉ざそうとしてくる。

 怖気が走った。肌が粟立つ。近づく喪失に、狡噛はほとんど恐慌をきたしそうになる。

 佐久耶。

 喉を潰さんばかりの勢いで叫んだと同時、足元を取られてたたらを踏んだ。息を切らしながら狡噛は目を落とし、そこに広がる奈落を見た。最早白い地は跡形もなく、いつの間にか浸食していた不浄の黒が、怪物めいた口を大きく覗かせている。

 その黒は、奈落であり、深淵であった。

 その一端に絡め取られた狡噛は、大きく胸を喘がせる。そうしている間にも、奈落は狡噛の片脚を呑み込もうとしている。

 狡噛は叫んだ。

 ――がくりと体が傾いで、反射的に目を覚ます。驚いて周囲に目を遣ると、そこは白い照明の眩しい八王子ドローン工場内の廊下で、狡噛は硬いフロアに直接腰を下ろし、壁に背を預けて仮眠を取っている最中なのだった。しかしそんな場所であぐらを掻いての仮眠には限度があったのだろう、弛緩した体が倒れ込みそうになって、反射的に目を覚ましてしまったというわけだ。

 状況を把握した狡噛は、一息吐いて髪を掻き上げる。――嫌な夢を見た。

 再び眠り込む気には到底なれず、狡噛は嘆息しながら立ち上がった。周囲に目を遣ると、少し離れた所に直理の背中を見つけた。一瞬、夢の中の出来事を思い出してしまって心臓がざわついたが、足元の大穴を覗き込んでいる後ろ姿は、狡噛が仮眠を取る前と変わりない。

 ほっと安堵して、そちらに足を向ける。気配に気づいた直理が、近づく狡噛よりも早くに振り返ってくる。

 直理は呆れたような顔をした。

「だから仮眠室で寝た方がいいって言ったのに。まだ三十分も経ってないよ」

 狡噛は微笑って首を振る。

「平気だ。もう十分」

 狡噛は朝から現場に出ていたが、直理は元々非番だったという。それで先に仮眠を取れと勧められたのだが、工場長の用意した部屋に戻る気にはなれなかった。それは即ち、直理を独り、ここに残して行くということになるからだ。

 直理は睨むような顔をしてみせる。

「後で倒れたって知りませんからね」
「そう言いながら、やさしく介抱してくれるんだろ?」
「重くて運べないから捨てていくと思う」
「ひどいな」

 低く笑って、直理の隣に立った。顔を寄せようとしたところで、にべもない口調に先回りされる。

「仕事中」

 腰を折りかけていた狡噛は、軽く瞬いた。

「……まだ何もしてないだろ」
「しごとちゅう」

 繰り返す直理は手元のタブレットから目を上げようともしない。

「寝ないならそっちの端末でデータまとめて」

 床に直接置いてあるラップトップを、電子ペンの先で示される。

 狡噛は黙って直理から離れた。しかし示された端末には向かわず、大きく口を開けている穴の際にまで足を向ける。覗き込むと、下のフロアがよく見て取れた。さすが建設現場などで使われる大型ドローンだ、と思いながら、足元でちょこまかと動き回っている鑑識ドローンを爪先で突くと、すかさず「狡噛」と言う叱責が飛んでくる。

 肩を竦めて顔を上げた。直理は眉間に皺を寄せてこちらを見ている。捉えた視線を離さないまま、狡噛は直理に近づいて行く。一歩、二歩、三歩、と距離を詰めたところで、観念したように直理が息を吐いた。

「セキュリティ・アイが見てる」

 電子ペンで指された方角を見ると、確かに、すぐ傍の天井角には監視カメラの姿が見えた。モニタリングとサイマティックスキャンの機能を備えた“目”は、組み込まれたプログラム通りに、一定のサイクルで周囲を監視している。

 そのサイクルを観察してから、狡噛はぐるりと辺りを見回した。張り出している柱に近づき、その影に立ってカメラと位置を見比べる。そうしてから口を開いた。

「ナオ」

 柱と自分の間の隙間を手で示すと、直理は困ったように眉を顰めた。そうしながらも促されるがまま、こちらに向かって歩いて来てくれる恋人の腕を取って、狡噛はやさしく、直理を柱に押しつける。

 見上げてくる瞳に、秘密ごとめいて囁いた。

「死角」

 そうして顔を近づけたが、今度は拒絶されなかった。それを確かめてから、狡噛は直理に口付ける。ついばむだけのキスを数度。こんな不品行な行為に及びながらも、パブリックエリアであるという理性は一応残っているので、これ以上のことに発展させるつもりはなかった。

 口付けながら、薄く目を開く。

 目を閉じ、タブレットを胸に抱き込みながら、狡噛の与える感触を享受している直理の姿態は、愛おしささえ覚えるほどで――どろりとした感情が胸の深いところから湧き上がってくる。

 ――離れられないように、抱きしめていて。

 照明の落とされた、暗いキッチンの片隅で。ひそやかな微笑と共に吹き込まれた言葉は、まだ耳に新しい。

 ――逃げられないように、奪われないように、もう二度と離さないで…。

 狡噛は目を細めた。

(“私を、閉じ込めてよ、慎也”)

 無論、その哀願を額面通りに受け取るつもりはなかった。そのままの意味として受け取るならば、狡噛は今すぐ彼女をどこかに閉じ込めなければならないだろう。そんな軟禁や監禁めいた馬鹿な真似はしない。幾ら潜在犯に身をやつしたとはいえ、狡噛も直理も社会性を持った立派な成人なのだ。それが実現不可能なこと、またそんなことをしても何の解決にもならないことは、お互いによくわかっている。

 あれは比喩なのだ、と狡噛は解釈している。彼女を物理的にどこかに閉じ込めることは不可能に近い。お互いが潜在犯、しかも執行官である身の上では、そんな暴挙は数日も持たないだろう。だから、部屋や屋内、どこかの檻の中に物理的に閉じ込めて欲しいという意味ではなく、あれは、狡噛という牢の中に自分を閉じ込めて欲しい――そういう精神的な束縛を願った言葉だったのだと、狡噛は解釈している。

 リップ音を立てて、狡噛は唇を離した。直理が目を開ける。満たされた狡噛は、彼女の顔の脇で突いていた腕を起こそうとしたのだが、不意にもう片方の腕を取られて動きを止めた。

 ポケットに突っ込んでいた方の袖を、直理が小さく掴んでいる。

「待って、慎也」

 見下ろすと、狡噛の体でできた影の中から、不思議な色をした目が見上げてきた。

「足りないよ。…もっと」

 ちょうだい。

 誰かに心臓を撫で上げられたような気がした。

 直理の体を柱に押しつけ、性急に唇を塞ぐ。今度は容赦なく口腔を攻め立てると、鼻にかかった息苦しそうな喘ぎが狡噛の耳を濡らして、ますます理性が試されるような心地になった。

 周囲の物音に神経を向けながらも、狡噛は彼女の両脚の間に自身の片脚を割り込ませる。直理の片手を柱に縫いつけ、舌を絡めて強く吸った。シチュエーションのせいだろうか、彼女の言葉のせいだろうか。笑えるぐらいに興奮している自分がいて、狡噛は自分が餓えた獣になってしまったかのような錯覚さえ覚えた。

 私を、閉じ込めてよ、慎也。

 彼女は狡噛に攻められるまま喘ぎを零すだけで精一杯のようで、とてもそんなセリフを吐いている様子はなかった。それでも狡噛は何故か、彼女の唇を吸う度、口腔を犯す度、その言葉を囁かれているような気分になった。

 ――私を、閉じ込めてよ、慎也。

 狡噛という牢の中に。

(俺の中に)

 ――最後に、彼女の口の端から零れ落ちそうだった唾液を舐めてから、狡噛はようやく体を離した。とろんと呆けた瞳は、直理の充足感を告げていたし、そもそも煽ったのは彼女なのだが、それを良いことに好き勝手にしたのは狡噛の方なので、一応謝罪を入れておく。

「…悪い」
「ううん」

 きもちよかった、と小さく言ってはにかむ直理の微笑に、愛おしさが込み上げてくる。狡噛は思わず直理を抱きしめていた。抗議の声にも構わずぎゅうぎゅう抱き潰してから、腕の力を緩める。

「……本部に戻るまではお預けだと思ってた。夢みたいだ」

 昂揚感に任せて素直な心情を吐露するが、急に気恥ずかしくなって狡噛は慌てて付け足した。

「けどな、来るなら来るで連絡のひとつくらい寄越してくれ。慌てた」
「慌ててたね」

 腕の中から返ってくるくすくすとした笑い声に、狡噛は唇を曲げる。

「……わざわざ思い出さなくてもいい」
「ふふふ、ごめんごめん。でも、急に決まったことだったから。メールしても、現場にいるんじゃ読めないだろうと思って」
「佐久耶からのだったらチェックするさ」

 鼻を寄せて囁くと、間近から楽しそうな目が見返してくる。

「ほんとに?」
「本当に」

 バカなやり取りに互いで笑って、じゃれつくようなキスをした。

 腕を離すと、彼女はタブレットを抱え直す。あ、終わってる、と呟いた言葉から見るに、いつの間にか鑑識は終了していたようだ。しかし鑑識が必要な箇所はまだ数か所――ワンフロア分下の大穴と、運搬ドローンの走行跡が残っている。時刻は朝の七時前。今からは狡噛も作業に入るので、もう少し早く終えることができるだろう。狡噛一人ならば仮眠も考えて今より大きく作業時間を取られていただろうが、今回は直理が手伝ってくれているので助かった。

 そこまで考えて、ふと狡噛は思った。宜野座と小熊谷の応援要請を受けた護流が、四係から出るついでに連れて来てもらった、と直理は言っていたが、直理の“用事”とやらは何なのだろうか。

「そういや、お前の用事って何なんだ」
「あれ、言ってなかったっけ」

 事もなげに直理は笑う。

「1年検診だよ」

 柱の影から出ていた狡噛は、振り返ってまじまじと直理を見つめた。

 しかし狡噛の胸中を知ってか知らずか、直理はタブレット端末を操作しながら、なめらかに話を続ける。

「復帰して1年経ったから、そろそろ識閾検査含めた1年検診しなきゃねってギノと話してて。ほら、ウチの直営病院、こっち方面だったでしょう? ついでに済ませようって話になって、それで」
「俺も行く」

 強引に言葉を割り込ませると、直理はそこでようやく目を上げた。狡噛の顔を見て、驚いたように束の間沈黙し、それからぎこちなく笑顔をつくる。

「……慎也も、病院に用事があるの?」
「ああ」

 頷きながら、狡噛は手首の端末を起動させた。チャット画面を呼び出し、相手に短文を送信する。まだ打ち合わせ中かと思っていたが、すぐに了承が返ってきた。

 狡噛は両の手をポケットに突っ込み、うすく微笑って直理を見る。

「この前常守監視官にパラライザーで制圧されただろ? それから、どうも色相が濁っててな。執行官のサイコパスなんて濁ろうが淀もうがもうどうでもいいだろうが、急な濁り具合だからな、気になって」
「……そんなこと、志恩さんは言ってなかったけど」
「……」

 狡噛が沈黙すると、直理もまた口を閉じた。

 そうだ、狡噛の見舞いには唐之杜の許可が必要だったのだ。その際、狡噛の容体や経過について触れることもあっただろう。

 狡噛は黙って首を鳴らした。まだ柱の影に立っている直理の姿を、じっと見つめる。

 ――私を、閉じ込めてよ、慎也。

 じゃあ、と言葉を紡ぐ唇は、まるで自分のものではないかのようにするすると動いた。

「この前の定期検診で再検査の項目があったんだな、きっと」
「……」
「俺はギノのところに行ってくる」

 廊下の向こうから聞こえてきた、どたどたと騒々しい足音に、狡噛は微苦笑する。

「護流さんを呼んだ。俺が戻るまで、ゴリさんに手伝っててもらえ」
「……もうすぐ七時だよ」

 工場長との“話し合い”まであまり時間がない。

「わかってる。すぐに戻る」

 こちらに近づいてきた護流の姿を認めてから、狡噛は踵を返した。


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