ひたり、と床を濡らす血を踏む音が嫌に響く。

「ひぃっ!ち、近付くな!」

 薄暗い部屋、淡く光る水槽を背に腰を抜かしている男は、その身に纏っていた白衣を緋に染めながら怯えに顔を歪めて叫ぶ。その視線の先には、全身に血を浴びて立つ銀時の姿があった。

「来るな!や、やめ!」

 無様に裏返る声を震わせながら、さらに後退ろうとする。しかし、その背はすでに壁を迎えていた。
 ひたり、ひたり。血に染まった床を銀時が歩く。足下には事切れている肉塊が幾つも転がっている。

「た、たすけっ」

 男へと歩み寄る銀時の顔を薄明かりが照らし出す。そこには感情の抜け落ちた、まるで能面のような顔があるだけだ。
 鈍く光る瞳は、しかし生気を失い、現を映していない。

 目の前の松陽、そして彼に対する下劣な行いに銀時の自我は完全に失われた。
 一瞬で腕を拘束していた縄を抜けると、傍に立っていた天人の剣を奪った。同時に、その天人の首を刎ねると、事態についていけず動きが遅れた他の者たちも次々と斬り伏せていった。
 憎しみを根源に立ち回る銀時の剣は、血脂でぬらぬらと妖しく照らされていく。

「ひぃ!」

 すっ、と振り上げられた剣から滴る血が、銀時の頬を濡らす。
 男は両手を翳して縮こまり、甲高い声を上げた。だが、次の瞬間には剣が振り下ろされ、両の手と首がごとりと転げ落ちた。
 その様を無表情に見下ろしていた銀時は、視線を水槽で揺蕩う松陽へと向ける。能面のようだった顔がくしゃりと歪んで、今にも泣き出しそうなそれへと変わる。

「先生ェ・・」

 転がっていた男の手を踏み潰し、しかしそれに気付く事無く、覚束無い足取りで水槽へと手を伸ばす。
 触れたそれは変わらず生暖かく、逆に冷たくなった銀時の手へ熱を宿した。

「松陽、先生・・、」

 銀時は剣を握る手に力を込め、それを振り上げる。そして、勢いよく振り下ろした。
 がしゃん、と大きな音を立てながら、剣と水槽の両方が砕けた。境を無くした溶液が溢れ出し、緋に染まった銀時へと降りかかる。
 髪や顔に付いた血は洗い流されたが、飛び散った硝子によって新たに無数の小さな傷が生まれる。しかし、そんなことなど意に介さず、銀時は水槽の中に力無く横たわる松陽へと手を伸ばした。

「先生、せんせぇ・・」

 幾十年振りに触れた松陽は、あの頃と変わらずに温かい。たとえそれが、下劣な行いによるものだったとしても、銀時にとって初めて己を抱き締めたその体は、温度は、渇望して止まないものであった。
 壊れないようにと優しく抱き上げれば、大きかったその体が今や己よりも小さく軽いことを知る。

「先生、先生・・松陽先生、」

 何度も繰り返し呼びながら、銀時はその腕に松陽の体を抱いて蹲る。しかし、松陽の体からはかつての彼の香りはせず、薬品の嫌な臭いしかしない。

「しょうよう、せんせぇ」

 銀時は松陽の頬に張り付いた髪を撫ぜると、抱く腕に力を込める。もう離さないと言わんばかりにきつく、しかし壊れないように優しく抱き締める。
 そして、そのままゆっくりと気を失っていった。



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