日常のひとこま


 夢中になれるものがあることは、いいことだと思う。目標に向かって努力する姿は、素晴らしく、そして美しいとも思う。
 しかし、今のこの状況は頂けない。

(全然、こっち見ぃひん‥)

 現在地は部室。時間は午後19時。
 本日の部活はミーティングのみで、平部員はもちろんレギュラーもとっくに帰っている。
 だというのに、この真面目な部長さんは部員全員のデータをまとめるとか何とか言って、お仕事中である。

(ほんま、真面目やなぁ)

 200人もの部員を纏め上げるカリスマ性と、それを裏付ける実力。そして、誰よりも努力家なこの男の頭の中は一体どうなっているのか常々不思議に思う。
 何でもそれなりに、彼に言わせれば適当かつ力を抜いてやっている自分には、理解出来そうにもない。

(いや、テニスは全力やんなー)

 以前、そう自分たちがこういった関係―恋人同士になる前、一度だけ無断で部活をサボったことがあった。
 理由なんて覚えていない。ただ、彼への想いを自覚していた自分は、恋する感情特有の“センチメンタル”というやつに流されたんだろう。
 テニスをしている時の彼ほど楽しそうで、美しい存在はないと思う。それを間近で見ることが、ちょっとだけ辛かった。
 対峙しなければ、彼は自分など見ていないのだと、そう感じていたから。

(怒られたなー、あん時は)

 そう、サボった自分に彼は普段見せないような顔をして、怒りをぶつけた。
 お前にとってのテニスはそんなもんなのか。そう告げた彼の瞳は、今思い出しても苦しくなるほどに哀しみを帯びていた。
 それ以来、サボることはもちろん、テニスに対する向き合い方が変わった。

(一番は跡部、二番はテニス、やね)

 跡部が居るから、跡部がやっているから、跡部が喜ぶから。不純ではあるが、テニスに打ち込むことの大半は、跡部が理由なのだ。
 まぁ、テニスが好きだというのは嘘ではないし、根底にしっかりとあるのだけれど。

「おい」

 それまで資料にばかり向けられていた蒼色の瞳が、ゆっくりと向けられる。不意に掛けられたそれは、少しの不機嫌を含んでいた。

「何?」
「さっきからなんだ、じろじろと」

 送り続けていた視線に気付いているだろうとは思っていたが、どうやら彼は少しばかりでも居心地の悪さを感じていたようだ。
 何だか、それがちょっと嬉しかったりする自分は、意地が悪いのかもしれない。

「んー? 跡部、綺麗やなーって」
「殴るぞ」

 気が短いのはいつものことだが、今は相当にお怒りのようで青筋が見え隠れしている。
 これは早々に雰囲気を変えなければならないようだ。

「殴らんといて。自分が構ってくれへんから、過去回想しとったんよ」
「アーン? 過去回想だ?」

 大袈裟に肩を竦めて両手を上げてみる。
そんなポーズをとる心理を見抜いているのか、それとも過去回想という言葉に関心を持ったのか。おそらくは後者であろう、彼は体ごとこちらを向いた。

「むかーし、部活サボった時に、跡部にめっちゃ怒られたなーって」
「‥‥、」

 どうやらその時のことを思い出しているのか、彼の蒼色の瞳は少し伏せられる。

「‥あぁ、」
「あん時から、俺。本気やねん、テニスにも跡部にも」

 誓いのような言葉だ、と思いながら微笑んで告げる。
 人の心理を読むのに長けている彼のことだから、そこに含まれた感情にも気付いているだろう。

「好きや、跡部」
「‥‥わかってる」

 ふい、と逸らされた顔は無表情を装っているが、短い髪から覗く耳は赤く染まっている。それが、堪らなく愛おしいと思えた。
 彼の前ではポーカーフェイスなど簡単に剥がれ落ちてしまう。けれど、それもまた嬉しい。
 自分でもわかるほどににやけていると、彼が勢いよく立ち上がった。

「‥、終わったん?」
「誰かさんがうるせぇからな」

 パソコンが微かに音を立てながら起動を終える。
 自分の鞄を乱暴に掴んだ彼は、足早に横を通り抜けていく。それを目で追いながら、慌てて鞄を掴んで立ち上がった。

「帰んぞ、忍足」

 彼によって開けられた扉の向こうは、当然ながら暗闇が広がっている。
 その不確かな世界の中で、彼の存在だけがはっきりと浮かび上がって見えた。

「待ったって!」

 一瞬見惚れて、その隣に並びたくて駆け出した。
 さして離れていない距離、すぐに隣に並んだ自分を見て、彼は少し微笑んだ。

「跡部、手ぇ繋ご」
「うぜぇ」

 返事を聞く前に繋いだ手は、彼の言葉と共に握り返される。天邪鬼なところも、愛おしいなんて。
 すでに誰も居ない校門までの道、何を話すでもなく二人並んで手を繋いで歩く。
 退屈だと感じられるのも、こうした嬉しい日々があるからなのだ。そう思うと、たまの退屈も我慢しようかと思えた。



END.

そんな日常な忍跡。

12.03.14


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