優しさのナイフ

 眠る君の横顔を見て、天使みたい、だなんて、不覚にも思ってしまった。


 目を覚ますと、桔平がこちらを見下ろしていた。
 俺が起きたことに気付いた瞬間、いつもと変わらない笑みを浮かべる。にっこりと。
 桔平に初めて会った時に俺が気に入った笑顔だ。きゅっと上がる口角に、くっきり入る頬の皺。吊り目がちの双眸が和らぎ優しげな表情になる。好きだった。
 けれどここ一年、俺はこの男のこの笑顔がすっかり嫌になってしまった。

「おはよう、春馬」
「…おはよ」

 桔平から目を逸らし起き上がる。従うように桔平が身を引くと、甘ったるい香りが薄っすら漂った。ああ嫌気が差す。
 俺は元々低血圧で寝起きは大体機嫌が悪い。加えて桔平による堂々とした“朝帰りスタイル”を寝覚めから見せ付けられれば気分は悪くなる一方で。

「じゃあ俺シャワー浴びて寝るわ。大学いってらっしゃい」

 見ていないけれどきっと笑顔のまま、桔平はあっさり俺に背を向けた。返事は返さずこっそり視線を上げて後姿を目で追った。まるで縋り付くような動作だと思った。
 ピカピカのスーツに派手な色のシャツ。
 バランスよく遊ばせた眺めの襟足。
 手首のシルバーアクセサリー。
 彼を彩り飾るそれらが無性に疎ましかった。すべて引き剥がしたら出会った頃の桔平に出会えると、俺はいつまでもそう信じていた。
 桔平は桔平じゃない。
 俺の知る桔平じゃない。
 どこかへ行ってしまった。消えてしまった。見つからないまま。
 それでも俺は、桔平から離れられずにいた。


「晩ご飯できてるよ」

 夕方、大学から帰宅すると、腰にエプロンを巻きつけた桔平が俺を出迎えた。休日は平気で一日の半分を睡眠に費やすこの男にしては珍しい。何か無茶なお願いでも聞かされるのではと即座に怪しむ俺をよそに、桔平は鼻歌をうたいながらキッチンへ戻っていった。
 上着を脱ぎながらふと食卓へ目をやり、驚いた。

「………何のパーティー?」

 呟くようにそう言うと、左手にワインボトルを掴んだ桔平が戻ってきた。そして不思議そうに俺を見た後、ふっと笑った。

「春馬のバースデーパーティー」
「え…」
「まさか忘れてた? さすが春馬」

 からかうような桔平の口調にも咄嗟に言い返せなかった。驚きのあまり思考が停止してしまった。桔平は固まる俺の背中をそっと押した。
 持っていた鞄を慣れた動作でするりと奪われた瞬間ハッとする。

「俺、今日のために休みとったのにさ。張本人が忘れてるなんて」

 クスクスと笑う。
 その顔は楽しそうだった。
 促されるまま椅子に腰を下ろす。桔平はにこにこしながらテーブルにグラスを置いた。ドキドキと脈打つ心臓を隠しながら、俺は注がれるワインを見つめていた。

「乾杯」

 控えめな音をたててグラスがぶつかる。
 おめでとう、の言葉に、ありがと、と小さく返した俺の声はどこか揺れていた。気付いたのか桔平が苦笑する。まだ動揺しているんだ。仕方ない。
 目の前に並べられた俺の好物たち。
 唐揚げの一つに箸を伸ばした。

「毎年一緒に祝ってたのに」

 くどくない程度に脂を広げるジューシーな唐揚げに舌鼓を打っていると、前方から少し拗ねたような声が聞こえてきた。咀嚼しながら顔を上げる。薄い唇を尖らせてこちらを見る桔平と目が合った。
 久しぶりに真正面からこの男の顔をはっきりと捉えた。相変わらず無駄に整った顔立ちをしている。初めて出会った頃――俺たちが高校生だった頃に比べて格段に大人び、ワインに口をつけるその姿にすら色気を漂わす大人の男。そいつが今、俺の目の前にいる。
 桔平は言った。

「去年だって二人で過ごしただろ?」
「……ああ」
「何その返事」
「べつに。忘れてないよ」

 忘れるわけがない。
 特に去年の誕生日は。
 桔平は当然だと言いたげにキッと視線をよこしてきた。


 去年の誕生日。
 二十歳になった日。
 俺は例年通り桔平と過ごしていた。高校時代から変わらない行事内容だった。大きく違ったのは、ひとしきり祝われ満足しきっていた俺に、桔平の口から飛び出た突然の爆弾発言。

『俺、大学辞めてホストになるわ』

 その言い方は「俺ちょっとコンビニ行って来るわ」と言うのと同じくらいの軽さだった。嘘だろう馬鹿だろう考え直せと唾を撒き散らし訴え続けた俺をいつもの笑顔で綺麗にスルーし、桔平は翌日退学届けを提出すると、約半月後には本当に大学からいなくなった。あっという間だった。
 まさか同居していたアパートからも出て行くのだろうかと心配したものの、桔平がこの部屋を出て行くことはなかった。その様子に少なからず安心した。出て行かれたら俺と桔平を繋ぐものは無くなってしまう気がした。

『だって女の子に囲まれて尚且つお金が貰えるなんて良い商売じゃん』

 どうしてホストなんだと詰め寄った俺に、けろりと答えた桔平の爆弾発言その2。
 頭は悪くなかった筈だ。むしろ良い方だった。変なものでも食べたんじゃないか、悪い病気に侵されたんじゃないか、懸念を広げる俺に対し、桔平はどんどん夜の世界に溶け込んでいった。
 部屋を出て行く桔平の背中を、初めのうちは見送っていた。けれど次第にそれも出来なくなっていった。
 夜闇に向かう男の、知らない背中。
 帰宅するたびに漂う誰かの香り。
 正直、耐えられなかった。


 俺は酒があまり得意じゃない。
 嫌いではないのだけれど、飲むとすぐに眠たくなってしまう。だから今日のワインも食後に口を付けた。案の定、瞬く間に睡魔に引きずられ、只今ソファーに突っ伏している。
 上から繰り返し降ってくる桔平の「風呂入りなよ」という声を、聞き慣れない着信音が遮った。大抵マナーモードの桔平にしては珍しい。
 どこか遠くから聞こえるその音に、俺は嫌な予感がしていた。

「…もしもし?」

 暫くしてから、桔平はその場で電話を取った。反応を示さない俺が完全に寝入っていると思ったんだろう。

「こちらこそこの間はありがとう、楽しかったよ。また会いに来てくれると嬉しいな。ん…いや、家に居たよ。うん…うん……明日?」

 ほら、予感的中。
 俺は睡魔に従おうと必死に聞こえないふりをした。
 こんな時、裏切られているような気分になる。錯覚する自分が馬鹿らしい。
 電話の向こうの誰かも、俺が知っているのと同じ笑顔を知っているんだろう。俺と同じように絆されているんだろう。卑屈な思考を繰り返して、どんどんどす黒くなっていくような気がして、そんな自分が怖かった。
 俺だって、気付いた時に踏み止まろうとしたんだ。
 こんなのおかしい、って。
 けれど戻れなかった。気付いた感情は広がるばかりだった。収まるところをしらなくて、蝕むように、覆い尽くすように、俺の中で大きくなっていった。
 叶うわけ、ないのに。

「春馬」

 通話を終了した桔平が、俺の名前を呼んだ。
 あの頃から変わらない優しげな声を、一体何人が耳にしているんだろう。

「あーもう、しょうがないな」

 口調は呆れたように聞こえたけれど、俺の前髪を払った桔平の手はやっぱり優しかった。


「……可愛いなぁ」


 それは慈愛に満ちた言い方だった。



 桔平。
 俺はこの想いを閉じ込める。
 特別じゃない笑顔を見るたび苦しくなるから。優しくされるたび胸が痛むから。もう溢れさせたりしない。

 だから、そばにいて。

 俺が願うのは、たったそれだけ。


end


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