ノクターンの涙 02

「あ、おつかれ」

 店の外に出ると早見がこちらへ振り返った。
 俺と桔平の顔を交互に見てから、ふうっと息を吐き出す。漂う白い靄。

「お前が近くに居て良かった」
「もっと早く呼んでよ」
「こんなに飲むとは思わなくて」

 苦笑する早見と目が合う。こいつが桔平を呼んだらしい。
 何を勝手にと思ったけれど気を遣ってくれたことは知っている。ありあと、と回らない舌で礼を言って頭を下げた。すると早くも鈍い頭痛に襲われ、思わず呻いた。

「うぅ…」
「春馬、大丈夫? 歩ける?」
「……うん…」

 俺の肩を抱く手に力が入るのが分かった。密着した身体は酒の力も相俟って尚更熱くなる。離れたくても一人では真っ直ぐ歩ける気がしなくて、仕方なく桔平のコートをぎゅっと掴む。
 全身が火照っている。俺って飲みすぎたのか。

「タクシー呼ぶか?」
「いや、そこの通りまで出ればすぐつかまるだろうし少し歩くよ」
「そっか、じゃあまたな。たまにはお前とも飲みたいんだけど」
「ん、また連絡する」

 行こ、と耳元で言われ、早見に手を振った。
 僅かに目を細めて笑う早見は、何か言いたげなようにも見えた。


「珍しくたくさん飲んだんだね」
「ん…」
「眠たくならなかった?」
「うーん…もうすぐ寝そう」
「ええ、道で寝ないでよ?」

 春馬は小柄だけどさすがに抱えるのはしんどいから、と弱った声が降ってくる。

「でも桔平は連れ帰ってくれるらろ?」

 見上げた先の男は何も答えなかった。しかし代わりのように後ろ頭を優しく撫でられた。たった一瞬のことなのに熱が増す。
 ふわふわとした脳内で、隣にいる存在を確かめて、なんか嬉しくて。
 猫の目みたいな三日月に照らされ歩む。
 桔平がまだ大学にいた頃はよくこうして夜道を歩いた。飲み会の後、俺を介抱するのは大体この男の役目だった。俺を支える体温がいつも心地よかった。

「懐かしいなぁ」
「何が?」
「俺、お前が隣にいてくれるから、いつも飲みすぎた」

 懐かしい、と繰り返す。
 二人で帰る道を、夜風を、今でも覚えている。けれど薄雲の覆う月みたいにどんどん曖昧になっていく。輪郭を失ってぼんやりしていく。桔平の隣を歩いた夜は散らばって、代わりに長く暗い一人の夜がやってきた。
 握った裾を、もっとぎゅっと引き寄せる。
 ただ隣に傍に居てほしかった。

「……春馬、俺は」

 桔平の声がいつもより低く聞こえた。

「――、なんでもない」

 その横顔は伸びた前髪でよく見えなかった。
 桔平が何を言おうとしたのか、頭が痛くて上手く考えられない。どうしてだろう、前を向いたままの男に胸がそっと痛んだ気がした。

「…あ、タクシー止まってる」

 よかった、と俺を見下ろして微笑んだ。
 それだけで、痛んだ胸がいっぱいになって、苦しかった。


 家に帰ってもまだ酒がぐるぐる巡っていた。桔平の持ってきてくれた水を飲み下し、背もたれに後頭部を預けるが楽になれなくて。固めのソファーは身体に優しくない。
 俺のコートを掛けてくれていた桔平が隣に腰を下ろす。ありがと、と今度は正しい発音でお礼を述べた。いいよ、と相変わらず穏やかな返事がかえってきて、同時に中身を飲み干したコップを取られた。テーブルへ置かれるそれをぼうっと目で追う。

「春馬そんな服持ってたっけ?」
「ん…? ああ、これ早見の」

 親戚の、だっけ。
 俺を迎えに来た早見が濡れたままのセーターにびっくりして貸してくれた。早見家に寄って見繕ってもらっていたけれど、体格が違いすぎて全部合わなかった、恨めしいことに。そうしたら一緒に住んでいるという親戚の男の子が帰って来て快く協力してくれたのだ。
 初対面の相手に服を貸してくれるなんて、良い子すぎる。甥って言ってたっけ?
 思い出して感動していると、いつの間にか桔平が訝しげな表情でこちらを見ていた。

「服、どうかしたの?」
「あーうん、ちょっと」
「手もケガしてるし。擦り傷?」
「…まぁちょっとな」
「鍵もなくしたんだよね?」
「………うん」

 忘れていた今日の失態の数々。
 情けなさすぎて桔平には話せない。
 きらりと探究者の目になっている男をごまかせるだろうか。自信が無い。俺、嘘は下手だし。

「何かあったんじゃないの?」
「べ…別に大したことない」
「ほんと? 俺、心配してるんだよ?」

 ずい、と身を乗り出す桔平と近くで目が合う。見返したら不意に交差点でのことを思い出した。桔平の隣にいたスレンダーな美女のこと。
 映像が浮かんできて心が黒くなる。どうせなら忘れたままでいたかった。

「…桔平が心配するほどのことじゃないから」
「春馬?」
「大丈夫だって」
「……もー、気になるじゃん」

 前髪を分けるように指先で額を撫でられドキッとする。
 その甘い仕草はきっと知らない女の子相手に繰り返されるものだろう。甘さを増して、囁きとともに落とされるものだろう。
 桔平の考え無しな行為一つに俺は振り回される。こいつにとっては何てことない触れ合いだ。俺が女の子の影を垣間見ようとしているなんて、どうせ思ってもみない。
 想像してしまいそうで、振り払うように口を開く。

「…今日はよく撫でられるな」
「え?」

 桔平の手が止まった。
 下を向いて、俺って撫でやすいのか、と呟いてみる。が、返事は無い。

「? なんか言えよ」

 窺い見た相手は真顔だった。

「……俺以外に誰に触られたの?」
「え、亜紀斗君」

 途端、パッチリとした両目が鋭利に細まって――、


「――“アキト君”、ねぇ」


 …なんか寒気がしたけど気のせいか?
 桔平が店に現れた時に感じた不安感がなぜか急に舞い戻る。整った顔立ちは精巧すぎて、無表情で黙り込まれると困ってしまう。悪い毒のように甘ったるい笑顔とは一変して怖くなる。
 分かっているのだろうか、桔平は。
 口を閉ざして何か思案しているようなイケメンを置いて、俺は恐る恐るソファーから離れようとした。それなのに横から膝を掴まれて肩が跳ねる。

「びびった…なんだよ」
「春馬」

 膝を放した手が、今度は腕を捕える。

「な…」
「春馬は、千葉がどういう男か聞いてない?」

 カフェオレ色の両目の奥が暗い。
 どうって…、と言いよどみ、答えが出ない。
 深い色の瞳を見ていたらこのまま吸い込まれてしまいそうだった。桔平に触れられると、見つめられると、預けてしまいたくなるのはどうしてだろう。受け止めてもらえないと分かっているのに止まらないんだ。
 ただ鈍く光るその双眸に、どうか優しく映してほしい。
 俺の思いが届くわけもなく桔平はふっと小さく息を吐いた。

「千葉はバイなんだよ?」

 男も好きだよ。

 桔平の声に頭の中で亜紀斗君の声が重なる。
 俺はじっと見返してから、少し間を置いて口を開いた。

「……だから何?」
「春馬みたいな子、タイプだと思う」
「はぁ?」

 無意識に眉間に力が入る。
 何言ってんだ。

「バイなら何? タイプなら何? 別に普通だったよ、亜紀斗君は。つーか桔平の知り合いなんだろ?」
「気を許しすぎたら危ないよってこと。春馬は鈍感なんだから」
「……お前に言われたくない」

 心臓が、ドキドキする。
 触れた部分から伝わりませんようにと願う。
 遠まわしに自分のことを否定されているみたいで背筋が寒くなる。今更当たり前なことなのに、見せつけられて怖気づく。鈍感なのは桔平の方だ。俺の気持ちなんて分かりもせずに言葉を突き付けて。
 優しく守ろうとして、気持ちが漏れたら遠ざけるくせに。
 ああ、やるせない。

「手、離せよ」
「…もう千葉とは接触しないって約束してくれるなら」

 感情の読めない淡々とした言い方にカチンときた。
 その手を無理やり振り払う。

「っ、お前はそうやって人を差別するのかよ!」

 沸いた怒りに任せて桔平を責めた。
 お前はそんな人間だったのかよ。
 そんな薄っぺらい境界線で、誰かを下に見るのかよ。
 言いたいことが溢れてくる。でも全てを口にはできない。肯定されるのが怖いから。
 言葉を飲み込む喉が熱く感じられた。

「…差別するよ」

 両肩を強く押され、背中がソファーに沈んだ。
 突然のことに声が出なかった。
 こちらを見下ろす桔平は俺の両手を押さえつけ、形のよい唇を滑らかに動かした。


「春馬が特別だから」


 影が降る。
 俺を覆い隠す。
 取り込まれてしまいそうだと思った。
 俺と桔平を隔てた夜が這い寄ってくる感覚がした。閉じ込めようとした気持ちの深淵に滑り込んで、暴こうとしているような、そんな――。
 今夜は無機質な硝子玉ではなく、赤裸々な双眸が怖かった。俺が求めていたものだったのに。


「…あんまり焦らせないでよ」


 耳元で囁かれ、額に温かいものが触れた。




 ただ、傍にいてほしかった。
 隣を歩き続けたかった。
 けれどお前は俺を置いていっただろう?
 俺の知らない暗がりで知らない女に触れるだろう?
 桔平の落とす言葉一つ一つは紐解くのに困難で、しかし俺を縛り付ける。桔平が出て行った夜に閉じ込められてそれでもアイツを待っている。

 お前を待っているんだ、桔平。
 迎えにくるのを、ずっと待っている。




 ごめん、と呟くように言って離れた桔平は、部屋を出て行った。
 ドアの閉まる音が耳にこびりついていた。
 この夜までも俺たちを遠ざけるらしい。背中を見送らなくてよかった。

「…やっぱ今日はうまくいかない」

 天井を見上げて桔平の声を浮かべた。
 まばゆい光に「特別」は甘く溶けてしまいそうだった。

「俺とお前は違うんだ」

 確かに自分に言い聞かせて、強く強く目を瞑る。
 目じりが熱く感じられたのは、きっと、気のせい。


end


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