還る夏

 ひまわりは夏の水に溶けるように消えていった。



 掴んだ腕が汗で滑り、手を落とした瞬間、俺は達した。喉の奥で声を殺して目を閉じてイッた。体内でドクドクと揺れる熱を感じ密かに安心する。今日も無事終わった。
 全身で呼吸をしながら、ずるりと出ていく感覚に呻く。俺から離れた結衣は、さっさと処理して一服を始める。ぷかぷか吐き出される煙を薄目で見つめていたら鼻の奥が痛んだ。
 手のひらで視界をふさぐ。
 暫くすると結衣が部屋を出ていく音がした。
 俺はそっと起き上がってベッド横の窓を開けた。晩夏の夜風はほんの少し秋のにおいがする。この部屋に残ったもの全てを浚ってほしいと思った。3年前に置いていった俺も、全部。


『太陽くん』


 少女の声が聞こえた。
 勉強机の上に置かれた写真立ての中、彼女はいつも笑っていた。

「――ひまわり」

 大事な大事なその名前を、結衣はもう呼ばない。
 俺だけでは寂しがるかな。
 そう思いながら遺影の前に置かれた小さな花瓶を見つめる。昨日よりも元気の無い向日葵が首をもたげて揺れた。
 再びドアが開いて結衣が戻ってきた。その手には俺の好きなコーラのペットボトル、反対には畳まれた濡れタオルがあった。

「はい」
「ありがと」

 差し出されたコーラをごくごくと飲み下す。その間、結衣が俺の脚を拭きだした為、慌てて避けた。

「自分で拭くって」
「だるいだろ、いいからそのままにしてて」
「なんだよ…最近カホゴじゃねえ?」

 何も答えずまた動き出した手を見やりながら眉根を寄せる。
 冷たいセックスとは裏腹に結衣は優しい。だから最中に垣間見る結衣の目が表情が身震いするほど怖かった。俺以外は見ることのないこの男の暗部だ。

「太陽、就活どう?」

 ふと結衣が顔を上げた。

「ああ、この間の一次は通ってたよ。まぁ問題は二次だよな」
「でもそろそろ面接慣れしてきたんじゃない?」
「前よりはな…お前はどうなの?」
「ぼちぼちかな」
「なんだそれ」

 結衣が笑う。どこか寂しそうに。
 こうして俺を見つめる時、結衣は俺の向こうにひまわりを見ていた。消えた未来を見ているのかもしれなかった。
 俺は目を逸らして夜を追う。見上げた黒く爛れた空には宝石を擂ったような細かい星々が輝いていた。ひまわりも空を見るのが好きだった。もしかしてそこにいるのだろうか。広大な宇宙に漂っているのだろうか。
 それでもひまわりには触れられない。
 同じく、目の前にいる男にも、俺は触れられない。

「もうすぐ夏が終わるな」

 結衣の声が部屋の中に落ちて沈んだ。


 付き合うことにしたんだ、と。
 二人から揃って報告されたのは高校1年の夏、ひまわりの誕生日だった。同時に俺の誕生日でもあった。俺たちは双子だ。大きな違いは性別が違うこと。握られたひまわりの華奢な指を見て、俺も女に生まれていたならもしかして、なんて馬鹿みたいなことを考えていた。
 隣の家に住む結衣とは赤ん坊の頃からの付き合いである。いつも三人一緒だった。二人の男女が惹かれ合うことは珍しくもない。結衣は紳士っぽくて頼れる男だし、ひまわりは可愛くて優しい妹だ。笑顔を作って二人を祝福した。しかし俺の中には黒く汚い感情が醜く渦を巻いていた。
 誰にも言えない秘密。
 結衣へ向けた感情の名前。
 きっとひまわりと同じ意味で、俺は結衣を想っていた。
 二人を微笑ましく見守る振りをして奥底では常に嫉妬していた。笑い合う姿を見ると羨ましくて仕方なかった。双子の妹の幸せは喜ばしいことなのに。

 だからひまわりの病気が分かった時、俺に罰があたったんだと思った。

 いつも黒く醜く二人を羨み責めたから、罰があたったんだ。
 優しい頬の丸みを日に日に削ぎ落としていく妹の中の病巣はどんどん広がっていった。半年ほど経つ頃になると長期入院にストレスを溜めたひまわりが爆発した。泣き叫んで俺の胸を叩いた。その細い手首を掴むことなどできなかった。
 病室へ入ろうとして出入り口で立ち止まった結衣が静かに帰って行くのに気付いた。
 ひまわりは兄である俺に縋りついたのだ。
 気付いたら申し訳なさとか愛しさとかいろいろなものが混ざり合って苦しかった。骨の浮いた小さな背中をさすってひたすら抱きしめた。声には出さず、ごめん、と繰り返した。

 それから翌年の夏の日の朝。
 ひまわりは眠るように息を引き取った。

 葬儀を終え一夜明けると、放心していた結衣が口を開いた。その瞳はゾッとするほど暗い色をしていた。なんでひまわりだったんだろう。低く呟かれた一言に、俺は身体をこわばらせた。ぎゅっと両手を握りしめたら涙が零れ落ちた。

 俺が病気になればよかったんだ。
 身代わりに死ねたらよかったのに。

 そう無意識に声を震わせていた。

『身代わりに…?』

 結衣と視線が交わった。

『じゃあ太陽、生きているお前が身代わりになってくれる?』

 暗い目をして無表情で結衣が言った。
 それが始まりだった。


 好きなんだ、とももう言えない。
 過去は戻せない。
 失ったひまわりの時間も返らない。
 ひまわりが夏に溶けて消えた日、俺たちは終わって、始まった。目に見える世界は色を落として、けれどやっぱり回り続けた。朝が来て、夜が来る。繰り返すごとにひまわりの跡が褪せていくような気がした。結衣と行為をするたびに濁っていくような気がした。
 それでも残された結衣が己を保てられるなら、生きてゆけるなら、俺は何でも出来るだろう。



「久しぶり、太陽」

 出迎えてくれた曜さんはまだYシャツ姿だった。仕事から帰ってきたばかりなのだと気付く。疲れなど見せず笑ってくれる彼に、ホッと心が落ち着いた。
 曜さんの後ろを飼い猫とともに続く。もう何度も会っている彼女はすっかり懐いてくれていて、俺の足に頭を撫でつけながらくるくる歩く。待ってたよと言われているようで嬉しかった。

「コーラあるよ、飲む?」
「はい」

 綺麗で明るいリビング。
 暖かなオレンジ色の照明に包まれながら大きなソファーに腰を下ろす。

「おかえり、太陽」
「ただいま、曜さん」

 差し出されたコップを受け取って笑い返す。家主はお酒以外の炭酸飲料を好まないのに、こうして俺の為に用意してくれる。優しく柔らかなひとだ。
 少し飲んでテーブルに置く。隣に腰掛けた曜さんを見上げれば、すぐに気が付いて抱き寄せてくれた。曜さんの匂いと体温は安心する。この手に何度も救われた。

「元気がないな」
「…少し疲れただけ」
「この手首と関係ある?」

 曜さんが俺の手を取った。
 手首には赤黒く変色した痣が浮かんでいた。

「――昨日、お墓参りに行ってきたんだ」

 少しの沈黙の後、「結衣君と?」と尋ねられた。小さく頷く。曜さんは手首の痕をそっと撫でた。
 道中、終始無言だった結衣は、帰って来てから俺を組み敷いた。久しぶりに手酷く抱かれた。終わってから謝られたけれど、俺は結衣の顔が見られなかった。身体とともに中身までぐちゃぐちゃに荒らされた気分だった。
 曜さんは結衣を責めない。
 誰も責めない。
 だから俺はここへ来る。
 何もかもを甘受してくれる彼にひたすら甘えている。

「無理するな」
「うん…」
「何があっても俺は君を傷つけないから、いつでも安心して休んでいけばいい」

 涙が滲んで返事が出来なかった。
 流れていく頬の水滴を曜さんの指先が掬う。つられるように顔を上げると至近距離で秀麗な容貌に対峙した。首の後ろをするりとなぞられ、曜さん、と呼ぶ。
 近づいた唇は重ならず離れていった。

「悪い、つい」

 苦笑する曜さんに首を振る。
 彼は同性愛者だ。1年前バーで声をかけられてから友人のような関係を続けている。告白されたことがあるけれど、俺の話を全部聞いてくれて、無理強いのような真似は一切してこなかった。
 ひまわりのこと、結衣のこと。
 知っているのは曜さんだけ。
 穏やかな部屋で彼の隣は心地よく、たまに昔を思い出す。太陽、と記憶の中の結衣が呼ぶ。二人が付き合いだす前のことだが、俺は結衣に頼り切りだった。慰めてもらうことも多かった。
 俺の頭を撫でる結衣の声が正しく甦る。

「太陽」

 それはとてもよく似ていた。
 曜さんの隣で暗い夜を明かす。瞬き続ける金星を目印に朝を辿る。俺は結衣のもとへ帰らなければならない。今もまだ夏の朝に囚われてもがいている結衣を探しにいかなければならない。
 俺は結衣が好きなんだ。
 ただそれだけなんだ。
 結衣には決して届かないけれど。




 自宅の門を開けようとした時、頭上から名前を呼ばれた。

「…結衣」
「ちょっと待ってて」

 隣の家の窓から姿を消した結衣が下りてきた。玄関を出て俺へと向かってくる。その顔は心配そうに歪んでいた。

「携帯出ないから…」
「あ…ごめん、気付かなかった」
「太陽」

 伸びてくる手に目を奪われていると、優しく抱き寄せられた。硬い鎖骨に鼻先が当たった。驚いて口を開こうとしたけれど、次に発せられた結衣の言葉に何も言えなくなってしまった。

「誰のところに居たんだ?」
「え…」
「――いや、悪い、何でもない…」

 結衣が俺の肩に顔を埋め、最後の方はくぐもって耳に届いた。ぎゅうっと俺を抱きしめる両腕は何か言いたげだった。
 早朝の爽やかな風のにおいと嗅ぎ慣れた結衣のにおいが混じり合う。吸い込んで吐き出す。大きな結衣の背中を抱きしめ返した。
 俺は何度だってあの日の朝へ、結衣のいる場所へ帰るのだ。夏の水に揺れて漂うような儚い女の子の記憶を追って、結衣がゆっくり消えてしまわないように。その目に映るのが俺じゃなくても、一生交わらなくても。例え間違っていても。
 道を誤りそうな蜃気楼をかいくぐる。
 いつか一緒に真っ直ぐ未来を見つめたい。
 だから傍にいさせて、結衣。
 庭のプランターからぐんぐん伸びた黄色い花が塀から身を乗り出していた。明るく笑っているように見える。それは俺のエゴかもしれなかった。


end



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