デイ・ブレイク

 最終電車に飛び乗った瞬間、ああ、もう二度とないんだろうな、と思った。
 発車ベルがけたたましく鳴り響いた。
 それだけが、俺達を見送ってくれているような気がした。



 連れられるままガラガラの車内を進む。外気に晒されていた素肌が急速に暖められ、皮膚がピリピリと痺れる。冷たくなった髪に指先を絡めていると、すぐに誰もいない先頭車両へ行き着いた。
 並んで座席に腰を下ろし、きつく巻き付けていたマフラーを外しにかかる。少し苦しかった。

「ほら」
「ん、ありがと」

 差し出された小さなペットボトルを受け取り、キャップを回す。温かなカフェオレに口をつける俺を見て、篠先輩は笑いながら言った。

「猫みてえ」

 何度も聞いたことがある台詞。
 確か初めて会話をした時もこの一言からだった。
 甘味が舌を撫でる。飲み下してもまだ、口の中に甘く残る。俺はカフェオレが好きだ。

「俺も飲む」
「ちょっとだけだぞ」
「いやこれ俺が買ったんですけど」

 いつもと変わらないやり取りにどこか安堵する自分がいた。
 座席に置いた手に体温が重なる。見上げると凛々しい顔立ちを崩して笑う篠先輩と目が合った。
 その薬指には、いつも嵌められている指輪がなかった。

「間宮」

 呼ばれて、顔を逸らす。
 わざと遠ざけるようにして向かいの窓を見た。外は雪が降っていた。
 白と黒のコントラスト。
 眺めながら、この男と出会った日もそうだったなあと思った。淡雪の舞う春先のことだった。
 篠先輩は俺に体重をかけると、深く深く息を吐き出した。疲労が滲んでいた。仕事に家庭に追われた男は、それでもまだ現実を繋ぎ止めるように、俺の手をぎゅっと握り締めた。そんな気がした。

「…重たい」
「はは」
「篠先輩」
「そう呼ぶの身近じゃあもうお前だけだよ」
「…篠主任」
「うんそうそう。な、終点着いたら起こして」

 篠先輩の硬い黒髪が首に触れる。毛先がくすぐったかったが何も言わず頷いた。数分と経たないうちに微かな寝息が聞こえてきた。
 すぅ、すぅ。
 小さな呼吸音を繰り返す。吹きかけられる吐息は温かい。窓硝子越しに見た篠先輩の寝顔は白くぼやけて、一瞬、こどものように映った。
 現実から逃げ出したいと思ったのは俺の方だった。この男と二人、どこか遠くまで逃げ出すことができたなら、何かが変わると思った。
 そう呟いた俺に、篠先輩は、じゃあ行こうと、やはりこどものように屈託なく笑った。
 間宮、と。
 記憶の中の声が呼ぶ。
 目を瞑ると太陽光を背負って笑う篠先輩がそこにいた。



 駅に着いてからはバスターミナルまで徒歩で移動し、20分ほど待ち時間を過ごした後、やって来た夜行バスに乗り込んだ。雪はまだ降り続いていた。携帯電話で見た天気予報では明け方にかけて深い降雪になるとのことだった。
 カーテンの隙間から大粒の綿雪を目で追っていると声を掛けられた。

「寝ないのか?」

 篠先輩はずり下がった大きめのブランケットを胸元まで引き上げながら眠そうな目で俺を見ていた。指先がこちらへ伸び、俺の手首に触れる。辿るようにして手を取り、指と指が絡み合う。
 篠先輩の体温は熱かった。

「おやすみのちゅーして」
「しね」
「わお辛辣ー」

 今年29になる筈の男は高校時代と変わらないふざけた口調でおどけた。呆れたふりをして前を向く。
 本当はくらりとした。
 目の前の現実と、淡い過去と、重なって縺れる。混じって揺れる。過去へ戻りたいような、戻りたくないような、よく分からない。
 けれど行き先は決まっていた。

「おやすみ、間宮」
「おやすみ、篠先輩」

 闇が落ちる。
 消灯された車内は薄暗い。滲んだ篠先輩の輪郭に目を凝らす。睫毛が伏せられるのを見た気がして、俺もようやく瞼を下ろした。
 共に眠るのは久しぶりだった。篠先輩と過ごす夜はいつも明けない。甘ったるい情事を経ると、深く沈んだ夜の帳を切り裂き、彼は俺の部屋を出て行く。
 背中を追うことはできなかった。見送る勇気もなかった。強がることすらできない臆病な自分。そんな俺を、篠先輩は微笑み一つで、丸ごと受け止めた。
 行こう、と笑ったのも、彼の優しさに過ぎなかった。



 ――蜃気楼が立ち上る。
 ジリジリと焦げ付くような日光を手のひらで遮り、身体中から噴き出す汗を片手で拭った。溶け出すんじゃないかと思うくらいに暑い。
 蝉が喚き散らし、生温い風の吹く、暑い暑い夏の日だった。
 俺は暑さのあまり顔を歪め、対峙する男を睨み付けた。

『酷い顔』

 綺麗な顔が台無しだぞ、なんて。
 制服のシャツの裾をひらひらとはためかせながら篠先輩は笑った。

『こっち来んな』
『酷いのは顔だけじゃねえな』
『来るなって言ってるだろ』
『やだ』

 篠先輩は迷うことなく真っ直ぐ近付いて来る。大股で俺の前まで歩み寄ると、爽やかな笑顔を作って手を伸ばした。
 片手は腕を掴み、片手は顎に触れ、頬に触れ、耳に触れる。
 唇を撫でる熱に眩んだ。

『好きだよ、間宮』

 篠先輩の手は止まらない。肩に触れ、腕に触れ、背中に触れ、そっと俺を抱き寄せた。
 優しすぎるその触れ方に、本当は泣きそうだった。

『……汗臭い』
『可愛くねぇー』
『当たり前だろ。俺オトコだよ?』
『知ってる』

 海が鳴いていた。
 ザザ、と。
 叫び出したいような、泣き出したいような、そんな勝手な気持ちを預けてみる。溢れ出しそうな何かを押さえ付けたくて。
 応えては駄目だ。


『好きなんだよ……間宮…』


 ――駄目なんだ。






「着いたぞ」

 穏やかな声に目を開けた。
 いつの間にかバスは停車しており、立ち上がった篠先輩が俺を見下ろしていた。

「ん…」
「降りよう」

 腰を上げたら足元が揺らいだ。分かりやすく低血圧。気付いたのか篠先輩は俺の腕を取った。
 去って行くバスの後ろ姿を目で追う前に素早く引っ張られる。躓きそうになりながら慌てて歩き出す。早足で高速バス乗り場を後にした。

「積もってんなあ」

 敷かれた真っ白な道を見て篠先輩が言った。足を進めると、キュ、という雪特有の感触がした。

「とりあえず駅まで行くか」

 薄碧い空が俺達を見下ろしていた。
 冷えきった空気をゆっくりと吸い込む。気管が凍て付く。鼻先がツンと痛む。

「目、覚めた?」

 振り返った篠先輩が笑う。
 俺も、笑い返した。

「うん」

 篠先輩の目がすっと細められる。何かを見透かすような、そんな双眸だった。
 指先だけで手を繋ぐ。
 無性に甘えたくなった。
 白銀の世界を、俺達は互いの指を鎖のように絡ませ合い、二人で歩き出した。

 始発の電車に1時間ほど揺られ、途中で私鉄に乗り換えた。車窓を過ぎて行くのは約10年振りに見る田舎の田園風景だった。
 俺達は記憶とは違う真っ白に染まったその景観を無言のまま眺めていた。乗客は少なかったが、繋いだ手は既に解かれていた。
 何となく見上げた横顔は無表情だった。
肩をつつくと篠先輩は弾かれたように俺を見た。

「……間宮、」

 縋るような声がした。
 篠先輩が思い起こす過去の情景は、俺と同じなのではと思った。
 傷つけ、傷つけられ、共に痛手を負ったのだ。しかし懲りずに追い求め合った俺達を、世間は許してくれない。
 逃げ出そう、と言った。
 現実から目を背けて、たった二人きりになろう、と。
 篠先輩は笑ってくれた。
 それで、よかった。

「ご乗車ありがとうございました。間も無く…」

 聞き覚えのある駅名に、俺は小さく息を吐き出した。



 眼下に広がる日本海は荒波を立てていた。遠くの水平線が朝焼けに染まる。煌めく金星に瞬きした。
 思わずガードレールに掴まり立ち止まっていると、下へ行こう、と篠先輩が言った。
 自分の中のどこかが、ざわりと騒ぎ立つのを感じた。

「さみーなあ」

 篠先輩が黒いダウンジャケットのファスナーを上まで上げた。俺もマフラーに鼻先を埋め、都会とは比べ物にならない鋭い冷気をやり過ごそうとした。
 ドクドクと跳ねる心音に激しい波の音が覆い被さる。そのまま奪ってはくれないかと思った。
 この男と二人、一緒に奪われるのならば、それも悪くないような気がした。

「間宮」

 篠先輩は見透かしている。俺を見る目は厳しかった。
 分かっていたんだ。
 篠先輩が笑って「行こう」と言った時から、薄々気付いていた。電車に乗った時、彼の寝顔を見た時、手を繋いだ時、名前を呼んだ時――ずっと節々から感じ取っていた。
 俺達は帰り道を見失った。
 足元が沈む。砂の中へずぶりと落ちる、その前に、篠先輩に腕を取られた。

「……懐かしいな」

 潮のにおいと篠先輩のにおいが混じり合う。

「初めて来た時も、こうやってお前の腕を掴んだ」

 忘れたことは、一度もない。
 あの日「海へ行こう」と言ったのは篠先輩だった。高校生だった俺達は、気まぐれに学校をサボり、ここまで来た。俺は気の向かないふりをして、けれど内心ドキドキしながら後を追った。
 辿り着いたこの場所で篠先輩は俺の腕を取った。引き寄せ、キスをして、耳元で好きだと囁いた。

 ――けれど俺は、応えられなかった。

 燃え広がるような情熱を感じていた。この男を想うと吐き出しようのない漠然とした愛しさに駆られた。泣きたくなるような夜をいくつも越えた。
 すきだ、なんて。
 そんな言葉では表しようがないくらい、俺は重く重く、この男を想っていた。
 俺の想いはいつか篠先輩を食い尽くす。歯止めの利かない愛情の刃で。
 それが不安だった。当たり前の幸せを、俺ではなく、篠先輩が味わえないことが。抱えきれないほどの想いをぶつけることが。
 怖くて怖くて、仕方なかったんだ。

「お前の腕の細さ、変わってないよ」

 その笑顔が水面に反射して輝いた。
 篠先輩は変わった。
 家庭を持ち、仕事に奔走し、精悍さを研ぎ澄ませるように、大人の男へと変化した。これは俺が望んだことだった。
 許されないと知っていた。手を取ることは罪だと分かっていた。取り返しがつかなくなると、頭の中で警報が鳴っていた。
 それなのに。

「…間宮?」


 2年前――再会した篠先輩の姿を見た瞬間。
 もう、駄目だった。


「篠、先輩…」

 逃げ出すことはできない。
 どれだけ遠くへ足を伸ばしたって、この男に絡めとられた想いも、過去の面影も、抱え込んだ現状も、無かったことにはできない。全部、全部。
 どうして俺は男なんだろう。
 どうして篠先輩は男なんだろう。
 祝福されて結ばれることができるのならば、どちらかが女に生まれた方が幸せだった。

「…帰ったら」

 篠先輩が俺を抱き締める。
 俺はその広い背中に手を回した。

「妻と離婚するよ」

 真摯な声色に、真っ直ぐな物言いに、眉間がじんわりと痛んだ。
 何かの犠牲の上にしか成り立たないのが恋なのか。それとも俺達が道を誤った代償なのか。
 暗い暗い夜明けの淵で、俺の恋は実るのだ。
 篠先輩の腕に抱かれながら俺は心の中でつぶやいた。



 こんな恋、二度とないんだろう、と。



 夜が明ける。
 世界が動き出す。
 暁の海岸で俺達は静かにキスをした。



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