一炊の夢

 生温い風が一面の青草を撫で、ざわりと音を立てた。空気は湿気を帯びており俺の唇をしっとりと濡らす。6月も終わりに差し掛かる頃だった。
 鉛色の空を背に鉄の塊が駆け抜ける。見え隠れする朝日にきらめいたそれが、一瞬だけ流れ星に見えた。ガキの時に庸司が教えてくれた明けの明星とやらの姿はない。どんよりと曇っている。
 ずっと遠くの空だけが、血の滲むように赤かった。


 俺と庸司は同村の幼馴染で、昔から当たり前のように二人でいた。庸司の家は周辺一帯の地主だった。そんな村一番の金持ち一家に生まれた次男と、村一番だと囁かれるほど貧乏な俺の家。しかし庸司の両親は差別することなく俺たちを温かく見守ってくれた。時には俺と母に料理を振舞ってくれたりもした。
 俺が14歳の時に母は死んだ。父は生まれた時からいない。母は俺の為にこっそり男に身を売って金を作っていた。その客からうつされた病に侵され、苦しみの果てに息を引き取った。母は隠していたようだけれど、俺は周囲からの噂話を嫌になるくらい耳にしていた。
 一人の身となった俺は学校を辞め、村から一番近い街に出て男娼として働き始めた。庸司の一家には何も告げず、皆が寝静まった夜更けに村を出た。養子に迎えたって構わないと小父さんは言ってくれた。小母さんも庸司の兄弟も頷いてくれた。しかし村人の冷ややかな視線に俺は耐えられなかった。同時に、その頃から自分の庸司に向ける感情が変化しつつあることに気付いていた。
 庸司は兄弟の中でも一番背が高くて、笑顔が爽やかな短髪の好青年だった。同年代で並んでもどこか垢抜けており、整った容姿と人当たりの良さも相まって、当然のように村中で評判を買っていた。
 そんな庸司の傍にいる俺はよくいじめられた。家の悪口は勿論、聞く耳に堪えない雑言を浴びせられながら暴力を振るわれることもあった。そのたびにどこからともなく現れて仲裁をしてくれるのも、やはり庸司だった。
 友情、羨望、信頼。
 庸司を想えば出てくる単語を、いつからかそれらだけでは抑えきれなくなっていった。庸司が人に囲まれる都度に襲い掛かる嫉妬。隣にいるほどに近づきたいと願う欲望。ただただ庸司が欲しかった。
 真っ暗な路地裏で、庸司の顔を思い浮かべながら、薄汚い男に抱かれた。酷い話だけれど、それが俺の初体験だ。一番薄汚かったのは自分だと、その夜が明けた朝に日の出を見ながら泣いた。

 それから数年が過ぎた。
 他人に抱かれることにもすっかり慣れ、感情はどんどん麻痺していった。何も感じなくなっていた。世間はきな臭さをにおわせて、ある日とった客に「戦争が始まる。田舎へ帰んな」と忠告された。珍しく見る親切な男だったけれど、俺は薄ら笑って首を振った。

 帰る家などとうになかった。
 もう庸司を思い出すこともなかった。
 たまに涙を流して目覚めることはあったけれど、起き上がればどんな夢だったのかなんて忘れてしまった。

 少し経ってから男の言うとおり戦争は始まった。都会の方はたびたび空襲に見舞われているとどこからか聞いた。俺のいる街はまだ地方であることから、疎開先としてあらゆるところから人々が集まってきた。戦時下ではあったけれど客はそれなりに増えた。
 いつも通り仕事を済ませた、ある日のことだった。
 よく寝泊りする小さなボロ宿の主が、俺の帰りを見つけ一通の手紙を差し出してきた。こんなふうに手紙を受け取ることは初めてで、かなり怪しみながら封筒の裏を見た。そこに書かれていた名前に思わず目を見開いた。「親御さんかい?」とよく事情も知らない宿主の言う言葉など耳に入らず、俺は一目散に部屋へ向かって、震える指先で封を破った。
 几帳面さが窺える庸司の懐かしい筆跡を見た時、無意識に泣き出しそうになった。
 見つけた経緯や、俺の行方を案じて捜し続けていたこと、小父さんや小母さんのこと、兄弟のこと、自身が都会の大学へ進学したこと、しかし二週間前に召集令状が届いたため休学しなくてはならなくなったこと――丁寧な文章でそれらは書かれていた。そして最後に綴られていたのは“会いたい”という文字だった。
 会うわけにはいかなかった。
 今の汚れきった自分を見せたくなどなかった。
 それでも庸司の存在を感じた瞬間に溢れ出した懐かしい感情。嘘だと言いたくても気付かされてしまった。この胸を今も高鳴らせる彼に、恋をしていること。
 悩んだ末にその日の夜、鈍行列車に乗り込んで、俺は懐かしい“故郷”を目指した。もう無い物と思っていた。庸司と過ごした幼き日々を、心に秘めた欲望を、全て消し去ったつもりでいた。しかし簡単に舞い戻ってきた過去の恋情が悔しかった。悔しくて、やるせなくて、しかしもう一度だけ彼の顔が見たいと思った。


 幼い頃に庸司と駆けたこの原っぱもじきに焼け野原になるのかもしれない。草の匂いを嗅ぎながら朝まで寝転がって空を眺めていた。それがまるで幻だったかのように。

「晴太」

 振り返った。
 そこには一人の青年がいた。

「庸司」

 青年――庸司は、昔と変わらない笑顔を浮かべた。

「…綺麗になったな」

 胸が痛い。
 綺麗だなんて嘘だ。
 目を細めてこちらを見る庸司を無言で見返した。
 ゴウッと唸りをあげて戦闘機が飛んでいく。庸司が上空を仰いだ。広大な緑の原に立つ彼は絵になる。その男らしい首筋を見て心臓がドクリと音を立てた。

「来いよ、晴太」

 昔よりも格段に雄のにおいを増した低い声が俺を呼んだ。
手招きに従って一歩ずつ距離を詰める。目の前まで近づくと、庸司の涼しい目元が、昔と同じ優しい光を秘めていることに気付いた。
 俺を見る穏やかな瞳に安心感をおぼえた。

「……会いたかった…」

 呟くような彼の一言とともに、そっと抱き寄せられた。
 すぐに逞しい胸を叩いて抵抗したけれど、庸司は黙って腕の力を強めた。そしてしっかりとした声音で言った。

「好きだ」
「庸司…」
「俺がお前を抱きたかった」
「……………」

 胸が痛くて仕方なかった。
 穢れた俺の体を抱きしめてそんなことを言う庸司は狡い。
 手放したくなかったのは、俺の方なんだ。

「…もう、遅いよ、何もかも」

 視界が滲んだ。
 空の灰色と草の緑が混じり合う。曖昧になっていく世界を見ていられずに、庸司の肩へ額を押し付けた。粗い麻のシャツが肌に擦れた。

「晴太」

 大きな手が俺の頬を包み込んだかと思うと、優しく口付けられた。

 その唇が、震えていた。

 彼との口付けが餞別であることに気付く。この恋は始まり、終わりを迎えていたことを知る。分かっていた筈だった。何も間違えていない。
 この時代に生まれ、庸司に出会った。
 何も間違えてなどいない。


「愛してる」


 例えその声が轟音にかき消されても。
 

end



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