ノクターンの涙 01
その日は朝からついてなかった。
目覚まし時計が壊れたせいで寝坊して、慌てて飛び出た玄関先で勢いよくコケて、手足を擦りむいて、青信号の横断歩道で何故か轢かれかけて、大学目前で犬のフンを踏んで、靴の裏を洗っていたら背後でふざけていた友達がよろけた拍子にぶつかってきて、びしょ濡れになって――、仕方なく一度自宅へ帰ろうとしたら、街の交差点で桔平を見つけた。知らない女と一緒だった。スレンダーな美女だった。
そこからはあまり覚えていない。
気付いたらアパートの前にいて、けれど鍵が見つからなくて、鞄を漁るのもやめて立ち尽くしていた。意気消沈。そんな感じだった。
「ぷっはー! 生追加!」
ジョッキをかかげてそう叫ぶと、カウンターから「ハイ喜んで!」と威勢の良い声が返ってきた。なんて気持ちいーんだ。清々しい。
満足して唇の端を舐める。欝すらとしたビールの味に舌先が痺れる。ピリピリ、ピリピリ。それさえ楽しくて可笑しい。
ジョッキを下ろしながら笑っていると隣から伸びてきた手に肩を掴まれた。
「おっまえ飲み過ぎ!」
眉間に皺を寄せた同級生がそこに居た。
「あー? なんらよーお前が誘ったんらろー」
「ほらみろ舌回ってない、ちょっと休め」
「嫌だ」
「はは、なんでそこだけちゃんと発音できんだ」
向かいの同級生はグラス片手に笑っている。俺もつられてまた笑う。隣からはため息が聞こえた。
「いつもはすぐ寝るくせに……、なんで今日に限って…」
ため息の主、早見は額に手をやって項垂れている。
なぐさめてやろうと頭を撫でてみる。しかし何故か睨み返される。美形の顰めっ面は恐ろしい。
「早見…こわい」
「ねー、怖いよねこいつー。だから俺の隣おいでよー」
優しくするよ。
ニッコリそう続けた向かいの同級生――えっと、なんだっけ、んーと、あー、あれ、頭ふわふわしてわかんない。
「亜紀斗だよ、あーきーと」
「ああ、アキト君」
「な、こっちおいで」
そう言って亜紀斗君が手招きをする。
彼とは、初対面。
アパートの前に立ち尽くしていた時、3人で飲もうと早見から連絡が入った。ちなみにその電話を受けた後、携帯は充電切れで電源を落とした。やはりついていない。
来い来いと動く指先を、長いなあと思いつつ視線で辿る。端正な顔立ちへ行き着き、目が合う。
亜紀斗君は優しげに笑った。
「あんま近付くと食われるぞ」
「はーやみクン、余計なこと言わない」
「食べてもおいしくないよー俺」
移動しながら笑うと、伸びてきた手に腕を取られ、倒れ込むようにして腰を下ろした。
思わず目の前の肩に掴まる。
頬にそっと触れられ、視線を上げる。間近から見る亜紀斗君はかっこよかった。甘い造りのイケメンだ。
「ほんっと可愛いなー、春馬君は」
「えぇ?」
「俺ずっと気になっててさぁ、ずっと早見に紹介しろって言い続けてたんだよ」
やっと念願が叶った。
そう言う声がひどく甘ったるかったので、俺は少し気恥ずかしくなった。
酒で火照った頬を指先で繰り返し撫でられる。なんだろうこれ。まるで猫でも相手にされているような気分。
向かいからは大きなため息が聞こえてくる。
「おい千葉」
「なによ」
「俺ちょっと席外すけど程々にしとけよ、そいつのことは」
「わーかってるって」
「俺の目見て言ってくんない?」
「キモいこと言わないでくんない? 別にこんなとこで手ー出さねえし」
「当たり前だよ」
はあっと再び大きなため息を吐き出すと、早見は携帯を手にして席を立った。俺と目が合い、もう一度ため息。多過ぎやしないか。
幸せ逃げるぞーと忠告する為に口を開き、けれど怖い目つきで睨まれて台詞を引っ込める。
「やっぱこわ…」
「…お前も気をつけろ。って酔っ払いに言ってもしょうがないけど…、そいつバイだから」
「ん?」
「気ぃ抜いてるとほんとに食われるよ」
言い残して離れていく早見の背中を暫く見送り、目の前の亜紀斗君へ視線を向ける。
彼は笑っていた。
「勝手に言うか、フツー」
まぁそういうとこが気に入ってんだけど。
早見の出て行った方向を見やりながら楽しそうにそう言った。
再び目が合う。
思い出して、ニコニコ笑う亜紀斗君の肩から手を離す。
「………男、好きなの?」
「うん、男も好きだよ」
「じゃあ一緒ら」
真似して笑う。
亜紀斗君は色素の薄い瞳を丸くした。
その時の目の形が桔平に似ていて、一瞬だけ胸がきゅっと痛くなった。
だめだな、まだまだ飲み足りない。
店員が持ってきた新たなジョッキを煽る。喉を通り抜け胃に溜まる様子がありありと分かる。分かるうちは、まだ駄目なんだ。
「春馬君も男が好きなの? てか男も好きなの?」
「んー、俺、桔平が好きらから」
天井を見上げて告白した。
金色の照明がきらきらとこちらを見返す。桔平みたいだと思った。まばゆく輝き、ふわふわ揺れる。けしてつかみ取れない。
言いたいな。
言えないな。
おまえが好きだなんて、俺だけのものにしたいだなんて、言えない。
帰りたいのに帰られない。迷子のようにふらふら歩む。進むこともできない。泣くのを堪えて、やっぱり桔平を求めてしまう。
一人じゃ怖くて帰られないよ。
「春馬」
ふわりと、静かに頭を撫でられた。
聞き慣れた声、嗅ぎ慣れた匂い。
それは高校生の頃によくされた仕草。
「帰ろう、春馬」
振り返ると桔平がいた。
夢かと思った。
なんでと問う前に視線を逸らされ言葉に詰まる。仰いだ両目は俺の背後へ向けられる。
「千葉」
「…知らなかったんだよ、まじで」
ごめんごめんと笑う亜紀斗君は、そっと俺の背中を押した。
「迎えが来たし帰りな。ごめんね春馬君」
「名前呼ばないで」
「…んな目くじら立てなくても」
亜紀斗君が苦笑する。
確かに、桔平の声色は尖っていた。
名前呼ばないで、って。
恋人みたいなこと言うんだなあなんて考えていると、突然、両脇に手を突っ込まれた。
「うわっ!」
無理やり立ち上がらされ、目の前がくらくらした。
額に手を当て下を向く。
足に力が入らなくなるまで飲んだのは久しぶりだった。大体は泥酔する前に寝てしまうから。
「大丈夫?」
平坦な口調。
火照りきった頭でも、その言い方に心が篭っていないことに気付いてしまった。
頭が痛い。
心臓がドクドク煩い。
肩を抱いてくれる手が無性に冷たく感じられて。
「行こう」
帰るんだ。
二人一緒に。
それなのに言いようのない不安が足元から立ち上った。