告白
暑い夏のことだった。
汗ばんだ素肌が吸い付くように重なって、まるで逃がさないとでも言いたげに抱き締められた。
心臓がぎゅっと痛んで、それすら見透かすように力を込められて。
俺はたまらず熱い腕にしがみついた。
滲んだ涙は痛みからだけではなかった。果たして気付かれていただろうか。どうかな。知らないかな。
俺だって、気付いたのは暫く経ってから、だったのだけれど。
博打のようだ。
勝敗を下すにしては忍びない行為だと知っていても、終われば全て分かってしまう。
今日の結果も俺の負け。
ケモノさながら突いて突いて突きまくって、散々イッた野郎は満足げ。
探し物は見つからない。いつまで経ってもやってこない。人数を重ねるごとに上がる経験値に興味は無いのに。
「痕つけんなっつの…」
これだから嫌になる、と。
鏡に映る全裸の自分を眺めてごちる。鎖骨に2つ、何の証か知らないが残された。最悪だ。
明日――否、今日は体育がある。
消えないかなあ、消えないだろーなあ。
頭の中でぐるりと一周考えながらシャツを羽織る。大体制服プレイも捻りがないんだと心の中で罵る。
スラックスを穿き終えた時、尻ポケットが小さく揺れているのに気付いた。
午前4時。
常識外れのコール。
発信者は一人しか思い浮かばない。
俺はそっとため息を漏らし、二つ折りの携帯をベッドへ投げた。
「なんで昨日、いや今日、今朝、出なかったんだよー、しかもその後着拒したろ、傷付いたよ俺は、そりゃあもう」
机に頬杖をつき上目遣いに俺を見上げる男子高校生。勿論まっったく可愛くない。顔立ちも男らしくて上背にも恵まれているから余計に。
向こうで女の子二人がキャッキャとこいつを見ているのは、なんとこいつが校内でも指折りのイケメンだからで。イケメンは得だ。イケメンは何をしても許される。イケメンはしねばいい。
気付いているのかいないのか、張本人の藤川は眉間に皺を作って俺をねめつける。
「しかもさあ、なんか最近避けられてる気がすんだよね」
「ナミちゃん?」
「昨日別れました。じゃなくてキミの話」
「お前さっさと戻れば自分のクラス」
「ほらすぐ遠ざける」
そう言って拗ねたように口を尖らせる。だから可愛くないってば。
案の定予鈴が鳴った。
藤川はいっそう唇を細めると面倒臭そうに立ち上がった。
「今日一緒に帰ろーな!!」
「…えー」
「迎えにくるから! 逃げたらあのこと言うから!」
「あのことってなんだよ。なんもねえだろどーせ」
カマかけんな。
そう続けようとしたところで藤川は教室から出て行った。
「そういえば藤川のクラス体育じゃない?」
「あれ完璧遅刻だね、授業」
聞こえてくる女の子達の声。
だから戻れって言ったのに。ばか。
出会った頃から変わらない。時間にルーズというか大体適当というか、藤川を見ていると自由だなあとのんびり思わされる。
怒った顔はあまり見たことがない。二カッとした笑顔がとても似合うし、よくそんな顔をしている。適当だけれど優しくてどこか頼りがいがある。愛想も良い。
なんて、奴の長所がするすると出てきてしまう自分に呆れる。どうしたって駄目だもんなあ。どうしたって惚れてしまった。
机に頬をぺとりとつけて窓の外を見上げた。丸裸のイチョウが寒そうに木枯らしを浴びている。落ち葉が風に運ばれる。
この冬を越えて次の春を迎えたら藤川と出会って丸3年経つ。同時に卒業。俺の長い片思いもそこで区切りがつくだろう。そう願いたい。
こんな薄汚れた片思いを後に残すだなんて真っ平だった。
木曜日の4限目。
教科は体育。
悪くない。
腹は減るけれど時間の経過が速い。だから木曜日は好き。次の日が金曜日だというのも気が楽だ。
こんなふうに考えるのも残り数ヶ月かと思い、何とも言えない気持ちになる。
名残惜しいわけでは、ないのだけれど。
考えるたび必然的に藤川の顔が脳裏を過ぎる。それが苦しかった。
予鈴と共に更衣室に入り、ちょうど出てきたクラスメートの一人に、担任に呼び出されて遅れたと伝えてもらうようにした。着替えの際にキスマークを見つけられて囃されるのが面倒臭かった。
誰も居ない更衣室で一人着替えるのは別に初めてでもない。これまでも数回ある。藤川と同じクラスだった頃は特に。
阿呆らしいな、と思う。
知らない男とのセックスの名残なんて要らぬ置き土産だ。わざわざ残す男も隠す俺も阿呆らしい。そうして丸ごと罵ったって俺はセックスをやめられない。
探している。
ずっと、探している。
たった一度きりの泣きたくなるようなあの熱を、いつまでも引きずって、いつまでも追い求めて、俺の身体はボロボロになっていた。
「星野?」
シャツを脱ぎ捨てたところだった。
俺はビクリと肩を揺らし反射的に振り返った。そこに立つ藤川を見た瞬間、思わず固まってしまった。
「あれ? なんでいんの? 授業始まってるけど」
「お…まえこそ、授業始まってんじゃん」
「俺は忘れ物。ケータイ」
「…あっそう」
ドキドキと鼓動を繰り返す心臓を必死で宥めながら素早くTシャツを着る。ジャージを羽織ればあっという間。一安心。
藤川はというと向いのロッカーの中から、あったあった、と喜びながら携帯を取り出していた。どうやら偶然誰も使用していなかったらしい。中身は空っぽだ。
はあっと、ため息。
藤川という男はたまに神出鬼没である。それも1年次から変わらない。
「あーなんか今から授業も面倒臭いな。サボらね?」
「どうぞお一人で」
「つめたい」
「道連れるなよ」
「なんなの、ほんと最近素っ気無いよ、キミ」
「別に普通だろーが」
倦怠期のカップルでもあるまいし、と皮肉めいた言葉を続ける。言い終わって傷ついたのは紛れもなく自分自身だった。
そう遠くない距離で藤川と目が合う。
真正面から見る藤川の顔は黙っていれば本当に男前なんだ。形の良い眉はどこか凛々しく、二重の双眸をより力強く見せる。こいつは目力がある。
見つめられているような気がしてしまう。眼差しを熱っぽく感じてしまう。
一重に恋をしているせいだ。
けして甘くはない恋。
「星野」
藤川の声が静かな更衣室で僅かに反響する。足音が近付く。かち合う視線に捕らわれて動けない。
何故か無表情の男を見て胸が騒ぐ。
フラッシュバック。
前にも一度だけ、こんな時があった、気がした。
試してみないか。
なんて持ち出したのは向こうだった。
輝いていたのを覚えている。きらきらと瞬いては揺らいでいた。目の前がうめ尽くされて、見上げた顔もぼんやりと映っていた。
カーテンの隙間から零れ落ちる夕陽のせいか、涙で滲む視界のせいか、どちらかは分からなかった。とにかく胸がいっぱいだった。
すると鼓膜が冴える。
シーツの擦れる音、肌のぶつかる音、ベッドの軋む音――、そして合間から聞こえる藤川の息遣いに欲情して、どうしてか切なくなった。
俺の脚を抱え直し、結合を深める貪欲な腰つき。
名前を呼ぶ声。
たまらなくなって瞑った瞼の裏、笑う藤川の夢を見てイッた。
藤川とのセックスは一度だけだ。初めての、一度きり。
行為が終わると藤川は「よかったよ」と俺の頭を撫でたけれど、それきりだったのは真実で。自惚れる隙も無い。ただの社交辞令。藤川は優しいから。
二人で重ねた身体は、セックスは、ただの興味と気まぐれで構成されていた。俺がどれだけ思い出して焦がれても変わらない。藤川にとってはきっと何でもない“経験”の一つだったのだろう。
俺は変わった。
変わってしまった。
漂う夜風に誘われ飛び出して、記憶を辿りながら見知らぬ男に抱かれる。どこかで気付きながらも抱かれる。淫らなふりをして嬌声を上げる。
気付いているのに。
分かっているのに。
藤川じゃないと駄目なのに。
ボロボロになった身体を抱えて迎える朝、いつからか、皮肉な着信が入るようになった。
「電話出ろよ」
目の前まで近付いて真剣な顔で何を言うかと思えば。
「あんな時間に掛けといて何言ってんだ、非常識」
身長の高い藤川を下から睨む。
藤川は表情を変えず、そのままこちらをじっと見下ろした。
至近距離で目が合っているだけでも堪えがたいのにこれはキツい。漏れ出してしまうんじゃないかと思うほど、鼓動が身体中で鳴り響き、いつまで経ってもおさまらない。どうかなりそう。
しかし目を逸らすこともできなくて、ひたすら藤川を見返した。それが今の俺にとっての精一杯だった。
どれくらいそうしていたのか。
まるで永遠に続くかのように途方もない時間だった。
皮ぎりは藤川のため息。
珍しく不機嫌そうな顔と声でどこか呟くように言った。起きてただろ、と。
「…何を根拠に」
「言ってほしい?」
唇の端がめくれる。
双眸が研ぐように細まる。
藤川のそんな笑い方を見るのは初めてだった。
おもむろに指先が伸びたかと思えば、俺の胸元を指して止まった。
「……………」
言葉は無い。
返す言葉も無い。
藤川は馬鹿じゃないしわりに鋭い奴だから、気付いているだろうとは思っていたけれど。
何も言わない藤川に胸が軋むように痛んだ。同時に熱くなった。
どうせ見透かすならば、こんなにも痛い恋心まで、赤裸々に暴いてほしかった。
「――俺のせいか?」
悲痛に聞こえた。
その眉が歪んでいた。
哀しげに俺を見る藤川がどうにも腹立たしいような、切ないような、言葉にするには難しい感情が渦巻いた。ただただ痛くて苦しかった。できることなら逃げ出してしまいたかった。
そうだよ。
お前のせいだよ。
そう言ったならお前はどうする。
苦しみから助け出してくれるのか、逃げ出すことを許してくれるのか。それとも。
醜い恋に、応えてくれる?
「…星野、」
涙が滲んだ。
零れそうだった。
泣いたら崩れてしまう。
偽った平穏を、日常を、壊してしまう。
震える俺の肩に、藤川はそっと触れようとした。
けれど俺は振り払った。
同情は痛かった。
更衣室の外からはたくさんの足音や声が聞こえる。こんなことをしている場合ではないと分かっている。
目と鼻の先に藤川は居るのに、確かに居るのに、今にも溢れ返りそうな俺の想いは伝わらない。報われない。
代わりなんて見つかる筈もない。気持ちも釣り合わない。それでも俺は恋をする。懲りずに藤川を追い続ける。
伝わらなくても構わない。
報われなくても構わない。
だからどうかこの恋を許してほしい。せめて願う。汚いと罵っても構わないから。
俯いて口を開く。
次に顔を上げた時、お前はどんな顔をしているかな。
想像は少しだけ。
声には出さない。
心の中で囁くように小さく告げた。
end