だからせめて
言い出せない一言を隠し持っているだなんて、君はきっと、知らないんだろうなあ。
ごめん、と。
震える声で一言だけ呟いた俺に、目の前の男は眉を歪めて笑った。
送っていく、という一言とともに手が触れ、反射的に肩が揺れた。
男は一瞬だけ傷ついたような顔をして俺を見た。
「……車出してくる」
剥き出しのフローリングが冷たくて痛い。熱を失くした足の裏の薄っぺらな感覚。ぐらぐらする。
ぺたりと膝を落として座り込んだ。
うまく動かない指先で乱れたシャツを掻くように手繰り寄せて、握り締めて、そうしながらも思い浮かんでしまうのは――、やっぱり、あいつの顔だった。
朝靄が漂う。
吐き出した息も色付く。
冷気に凍える腕を擦り顔を上げた。白っぽい外気を切り裂いて、車は遠ざかって行った。
はあっと深呼吸。
気管がツンと痛む。
カンカン、というアパートの階段を叩く足音が妙に響く。ダウンベストの擦れ合う音すらよく聞こえる。
静かだ。
穏やかな朝。
まるで何事もなかったみたいに夜が明ける。夜半は続かない。それを知っていたからこそ、俺は毎晩この部屋に帰ってきていた。
朝帰りは、久しぶりだ。
「おかえり」
心臓が跳ねた。
階段を上がりきり足を止める。
朝靄よりも深い白がふわりと漂っていた。吐き出される口元を辿り、その横顔を見た。
「…ただいま」
欄干に肘を乗せた桔平がこちらを振り返った。
交わる視線の向こう、その瞳はコバルトに瞬く。
「遅かったね」
手元の煙がくゆる。
桔平が煙草を吸っている姿を見るのはいつぶりだろう。てっきり禁煙に成功したのかと思っていた。
ドキドキと早足になる脈拍を認めながらドアに近付く。背後から視線を感じるのはきっと気のせいなんかじゃない。
「…お前なんで外いんの。寒くね?」
「寒いよね」
「何してんだよ…」
羽織ったコートの下はいつものスーツ。こいつだって帰宅していくばくも経っていないのかもしれない。
寒いのだから換気扇の下で吸えばいいのに。喫煙に文句を言った覚えはない。
こいつの考えることはたまに全く分からない、相変わらず。
ため息をつきたい気分でドアノブを回し狭い玄関へ入ると、室内は僅かに暖気を帯びていた。桔平が暖房を入れていたらしい。
「春馬を待ってたんだよ」
パタンとドアが閉まった。
後ろに続く桔平の気配に振り返る。
「なにそれ。別に外で待たなくても…」
「どうやって帰ってくるか見たかったんだ」
「はあ?」
桔平は俺の前を通り過ぎると、流し台で煙草の火を落とした。いつも通り滑らかな横顔は微笑を浮かべているけれど、カラコンの瞳からは感情が上手く読み取れなかった。
桔平がコーヒーカップを二つ取り出しにかかる。それを横目に、俺は奥へ進み鞄を下ろした。ソファーに身を投げると、あまり良質でないそれがギシリと呻いた。
何だか疲れた。
軋む四肢を目一杯伸ばす。
感触が残っていた。
触れられた部分が心地悪い。
早くシャワーを浴びてしまいたいと思うのは、けして悪い奴ではなかった男に失礼だ。分かっている。これは俺一人の問題。
「はい、春馬」
コト、と音がした。
漂う香ばしさ。
顔を上げるとテーブルの上に湯気を昇らせるカップが置かれていた。
「どこ行ってたの?」
桔平が俺の足元に腰を下ろし、スプリングが歪んだ。
目を合わせるのは億劫だった。
カップの薄らとした模様を見つめながらそっと口を開く。
「…大学の奴んとこ」
「俺の知らない奴?」
「うん」
「何してたの?」
「なにって」
「飲んでた?」
「いや、飲んではないけど」
「ふぅん」
正直、ビクビク。
頼むからこれ以上突っ込まないでくれと心の中で繰り返す。嘘は吐きたくない。
座り直してカップに手を伸ばす。口付けた苦味に縋る。
落ち着け、落ち着け。
「ねえ、春馬」
肩口が跳ねた。
その声がやけに冷たく聞こえた。
熱っぽい視線を感じ、つられるように桔平を見ると、淡い群青とぶつかった。
硝子玉みたいな双眸に俺が映り込むのを見つけてしまう。目を逸らしたいのに捕らわれる。
輪郭に触れたい。
桔平を確かめたい。
まだ一緒に居られているのだと身体で理解したい。
誰かのものになってしまえば忘れられるんじゃないかとか、そんな浅はかな思考も無意味だった。当たり前だ。結局土壇場で拒んで終わり。
桔平を目の前にしただけでこんなにも胸の中はざわつくのに。
どうしたって思い知らされる。
俺は桔平が好きだって。
「…先にお風呂行ってきなよ」
ふうっとコーヒーの熱を吐き出し、桔平が言った。
「いいよ、お前仕事帰りだし先入れば」
「駄目。春馬が先」
「いいから」
「絶対駄目」
「……なんだよ…」
頑なだ、妙に。
訝しむのを隠さずに見返す。
「春馬が先だよ」
カップをテーブルへ下ろす指先を目で追った。
魅せられる。
すらりとした指一つ一つの動作にすら。
それは恋愛感情を自覚する前からそうだった。桔平の表情や動き、雰囲気に魅せられて、いつの間にか視線が釘付けになる。逃げられなくなってしまう。
桔平は“特別”なんだ。
それを特技と言ったらおかしいけれど、この男の持つ魅力は唯一無二。
だからどうか売り物にしてほしくない。
目に見える価値にしてほしくない。
俺のものにしたいだなんて我が儘言わないから、金で代えられるものなんかにしないで。途端に色褪せてしまう、そんな勿体ないことしないで。
お願い、桔平。
「どうしてそんな顔するの…?」
気が付けば桔平の手のひらが俺の頬に触れていた。
カップの中で水面が揺れる。
桔平から漂う夜の香りに目眩がする。どうしても越えられない境界線を思い知る。例え空が白んでも桔平の抱える夜は俺達を隔てる。
届かない。
桔平に届かない。
こんなにも近くに居るのに、俺の持つ願望が伝わることはないんだ。
「春馬…」
俺の手からカップが取り上げられる。
不審に思って視線だけで見上げると、何故か眉根を寄せる桔平と目が合った。
「き…」
ぎゅう、っと。
音がしたかと思った。
「春馬」
桔平の唇が耳の縁に触れる。
鼓膜へと直接囁かれるような、なだれ込む低い声に心臓が慌てる。
俺を抱き締める桔平の腕は少しだけ震えているような気がした。
「――桔平…?」
行き場の無い手。
背中に回していいものか、どうなのか、分からなくて静かに下ろす。
そして次に桔平が口を開いた時、俺の身体は硬直した。
「早く洗い流してきてよ」
「え…」
「今の春馬、知らないオトコのにおいがする」
悲痛に聞こえたのはたぶん気のせい。
人を惑わすのは桔平の得意技。
いちいち揺れて振り回されていたら身が持たない。
分かっている。
痛いくらい。
分かっているのにそのまま離れていく体温が名残惜しかった。たった一瞬のことみたいだった。儚い一時。
暫くして上から掛けられたバスタオルに顔を上げる。隙間から見えた桔平の背中は、夜になると出て行く後ろ姿に似ていた。
変な期待ならいらない。
どうせ切なくなるだけ。
それなのに桔平に恋をして、やめられない俺は馬鹿だ。心の底で報われたいと想う俺は、せめて桔平のものになりたいと願う俺は。
なんてどうしようもないんだろう。
寝室へ繋がるドアが閉まり、桔平は居なくなった。
「なんで分かるんだよ…」
小さな呟きが室内に落ちる。
太陽の光がカーテンの隙間から差し、思わず目を細めると、知らぬ間に溜まっていた涙が一滴流れ落ちた。
end