不確境 [2/2] 「この地から先は死者の世界。煩悩が支配する生者に、楽園を与える神なぞおりません」 楽園を望むならば死を選べ。 少女の言葉は遠回しながらもはっきりとそのことを示していた。 一瞬思案顔を見せたアリウスは、「人間は――」とおもむろに口を開く。 「命を賭してまで楽園を選ぶだろうか?」 人当たりの良い笑顔を払拭して、射抜くように少女を見上げる青年。 彼女は分からないとでも言いたげに肩を竦めた。 「私は人間ではないですから」 「奇遇だね。私もだよ」 彼らの考えは分からない、と付け加えたアリウスの生真面目な顔を、少女は凝視する。 「確かに、無傷でこの地に踏み入れることが出来た者は人間でないも同然ですが……」 納得し難い様子で言葉を濁す少女。 ちらりと感情の一片を見せた彼女を見て、にっ、と青年は意地の悪い笑みを浮かべた。 「私では、楽園の住人になる資格はないのかな?」 葉擦れの音も立てない木の根元で、小首を傾げて問い掛けるアリウス。 少女は目を細めた。 「最初からそのつもりでここに?」 「さあ、どうだろうね」 人々に語り継がれる楽園には様々な逸話がある。 そのうちの一つを思い出しながら、アリウスは飄々と肩を竦めてみせた。 「ふと思い出したから訊いてみただけだよ」 楽園の番人に認められたら、その地の住人になれるんだ――。 嬉々として呟いて姿を消したかつての友が、アリウスの脳裏に蘇った。 きっと、彼はもう生きていないのだろう。きっと、ここに辿り着くこともなかったはずだ。 「私はもう、長いこと生きた」 楽園に魅せられた者達を沢山見てきた。楽園を追った彼らはどうなったのか、少女の言葉から容易に想像が出来る。 不意に翳りが差したアリウスの顔を見て、眉を顰める少女。 「死を望むなら、与えます」 片手で支えていた錫杖を僅かに持ち上げ、彼女は端的に告げた。アリウスは俯いてやんわりと首を横に振る。 「与えて貰えるならば、私は――」 くぐもった声で、アリウスはそう言った。 不服そうに顔を顰めた少女は「生にしがみ付くおつもりで?」と冷たく返す。青年は再度首を振って否定し、顔を上げた。 「私を取り巻く生と死、これらを捨てる権利が欲しい」 よく通る柔らかな声音で述べられたアリウスの願望。そう告げた彼の表情は寂しげな微笑に彩られていた。 「……生きることをお辞めになられるのですか」 静かに錫杖の先を地につけた少女は、感慨深げに独りごちた。 「死ぬことも出来なくなりますが」 「承知している」 決意を確認するが如く続けられた少女の台詞に、愚問といわんばかりに即答するアリウス。 口を閉ざした少女は、まるで見定めるかのようにアリウスをまじまじと見つめる。 青年は懇願するように彼女を見上げ、掠れた声で少女の名を呼んだ。 目を見開いた少女は言葉を失ったらしく、アリウスから目を離せぬままたじろぐ。 彼女のその様子を見、青年は苦笑を浮かべた。 「これでも色々調べたんだ。君に私の願いを叶えて貰いたくてね」 怪訝な顔付きでアリウスを観察する少女は、表情をさらに険しくする。 「目的は何ですか」 疑念の篭った眼差しを向けられるも、青年はただ肩を竦めるのみ。 「これ以上生にしがみ付きたがる友は欲しくないのでね」 哀愁漂う口調で述べられたその言葉からは、真実なのか虚偽なのか判別がつかない。 沈黙の中、アリウスの視線を受けしばらく逡巡していた少女は、ゆっくりと口を開いた。 「特別です。あなたに権利を与えましょう」 淡々とそう言った少女は、「その前に」と付け加えて軽々と持ち上げた錫杖の先をアリウスの首筋にあてがう。 どうやら、この白い空間のせいで距離感が麻痺していたらしい。一歩も動くことなく突き付けられた杖の文様に目を遣ったアリウスは、意図せずとも自然と笑みが零れるのを覚えた。 「輪廻を一巡して頂きます」 事務的な凛とした声が耳に届くや否や、青年の意識は途切れた。 戻 [*prev] | [next#] |