不確境 [1/2] 人も寄り付かぬ世界のどこか。神々が住まうとされている土地があるといわれていた。 長い間人づてで存在が伝わっていたそこは、場所も外観も伝わる地域によってばらばらだが、誰しもが嬉しげに口にする通称がある。 「『生きとし生ける者の楽園』……か」 麗らかな日差しを浴びて、地に腰を下ろし幻想的に響く小鳥の囀りに耳を傾けていた男は、誰に語り掛けるわけでもなく独りごちた。 歳若い青年の言葉に応えるように、生温い風が彼の柔らかい栗毛色の髪を揺らす。 心地好さげに黒の双眸を細めた男は、背後に生えている木に背中を預けた。 解読出来ない金色の糸で綴られた呪の詞が、硬い素材で出来たゆったりとした作りの黒い法衣にあしらわれている。 青年は袖口にも施されている刺繍へと手を伸ばし、そっと指でなぞった。途端、全ての感覚が遠ざかった。 「これが、楽園なのか」 幼き頃から繰り返し読み上げていた刺繍の文字を心の中で判読しながら、青年、アリウスはぽつりと呟く。 呪に触れ、瞬きをした直後だった。彼がいる以外、彼がもたれ掛かる木がある以外、全ては真白に覆われていた。雪ではない。目の前にあるとする『何か』に触れてみようにも、その『何か』は存在していないのだ。 「仮定して尚存在はし得ぬと」 胸中に浮かんだ言葉をそのまま口にして、アリウスは苦笑した。 仮定することによって基盤を築く人間には到底いられぬ空間だな、と彼は困ったように後頭部を掻く。 「お教え致しましょうか」 いつからそこにいたのだろうか。 最初からそこにいたかのように、一人の少女が凛とした声を発した。 彼女との間は距離にしておおよそ大人五人分程度。近くではないが、決して視界に入らない距離ではないはずだ。 では、いつから見られていたのかとアリウスは思考を巡らせる。そして、考えが読み取られぬよう、にっこりと人のよさそうな笑みを彼女に浮かべてみせた。 「是非ともご教授願いたいね。ついでに、帰る方法も知りたいのだが」 そう愛想良く答えて少女の反応を窺うアリウス。 濃紺の長い髪を揺らした彼女は、背丈ほどもある銀の錫杖を持ち直して、どこか遠くを見ているかのような紺色の瞳で青年を見下ろしている。 「来れたのに帰れないのですか」 少女のもっともな台詞にアリウスは苦笑を返した。 まあいいでしょう、と彼女は目を伏せる。 「ここを知られたからには帰すわけにもいきません」 「帰れはするんだ?」 アリウスが揶揄するように口を挟むも、気を害した様子もなく頷いてみせる少女。 「入口もまた出口です。――もっとも、同じ存在として帰れる保障は出来ませんが」 赤銅色の礼服を着た少女は、十代半ばと思われる外見からは予想も出来ない曖昧模糊な返答をする。 「ここに来ることによって、私の存在も危うくなっているということかい」 「物分かりの良い人間は好きですよ」 腰まで伸びた濃紺の髪を揺らし、少女は微笑する。アリウスは嬉しげに笑みを返した。 「来るだけで死にそうになれるなんて素敵な場所だね」 にこにこと爽やかな笑顔を浮かべたまま、皮肉を口にするアリウス。 それに対して、彼女は笑顔を拭い去って口を開いた。 戻 [*prev] | [next#] |