空がまっくら闇に包まれた頃、とある少女の住む大きな屋敷の灯りは消えて、その建物の外観は夜の色と同化していった。少女はベッドから抜け出し足音をたてないようにそっと廊下へと続くドアへ近づくと、息をひそめながらその扉を開ける。淡い光に照らされた廊下に誰もいないことを確認すると恐る恐る、しかし急ぎ足で、今度は外へと続くドアを目指した。玄関の扉は中から開けられないように内側にも鍵がかかっていたが、少女は昼間のうちに盗んでおいたキーを鍵穴にさして難なくそのドアを押しあけてしまう。開いたドアの先には月明かりに照らされた庭が続いていた。冷たい空気を吸い込む。少女は、冬の寒さもこつこつと反響する靴音にも構わずぼんやりとした暗闇を駆け抜けた。





欠伸をひとつこぼして、時計を確認すれば丁度1時をまわったところだった。すっかり人通りの減ってしまった夜道を一人で歩きながら、今日の任務は簡単すぎたなぁとか今からボスのところへ任務完了の報告をしにいくのが面倒だとか衣類についた返り血の臭いを早く落としたいとか、不満を心の中でだらだら垂れる。もう歩くのも面倒だしホテルにでも泊ろうかとその場に立ち止まりすぐ近くにある建物を見上げる。………あ。

「満月」

丁度自分の頭に浮かんだ言葉が、音になって後ろの方からぽつりと聞こえた。驚いて声がした方を振り返れば、見知らぬ女が空を見上げながら立っていた。まぁここら辺に知り合いなんていないので見知ってる奴がいた方が驚きだが、その女があまりにもこの場所に釣り合いが取れていないというか、こんな時間に外をうろついている輩とは纏っている雰囲気が違いすぎて、それとはまた違う驚きを覚える。薄い生地のワンピースに分厚いコートを1枚はおっているだけの不格好な外装も怪訝に思う。おまけに素足にヒール。寒くないのだろうか。小さな驚きが重なってその女から目が離せないでいると、空を見つめていた目がこちらへ向いた。ばっちりと目が合う。そのまま視線をそらさず目を合わせていたら、女は初めは驚きからか目をまあるくしていたのだが、何を思ったのかいきなりキラキラと瞳を輝かせはじめ、こちらに少し駆け足で近付いてきた。

「あ、あのっ」
「……?」
「お兄さん今時間ありますか?!」

ミーのことを「お兄さん」と呼んできた女はどう見ても自分より年上なのだが、こんな時間に時間ありますかだなんて変な事を聞いてくる奴だ。夜のお誘いか何かなのだろうかと首をかしげる。

「今ミーお金持ってないんでーそういう気分でもないし」
「え?……あ!お金なら私が出すので気にしないで下さい!」
「は…?」

何言ってんだこいつ。訳の分からない事を口走る女はなおも目を輝かせながらこちらを見ている。自分でお金を払うからなんて、お誘いはお誘いでもミーの考えていたものとは違うのだろうか。「あの、時間はあるのでしょうか」と、繰り返し時間の有無を問う女の瞳の煌めきに、それが純粋なお願いなのだと知る。本当はすぐにでも帰りたいところだが、口から出た答えは「時間がないわけでもないですけどー…」という曖昧なものだった。それを聞いた途端より一層輝きを増した瞳を見て、いよいよ断れない雰囲気になってしまったと、女から視線をそらしやれやれといった具合に目を閉じた。

「それでは付き合ってほしいところがあるんですが、あの、お願いしてもいいでしょうかっ?」
「…でもミー疲れてるんで早く帰って寝たいっていうか寝たいっていうか」
「お、お金なら払うので!あ、でも今日はこれだけしか……あ、少しだけでもいいんです!場所が分からないだけなので着くまで付き添ってもらえれば、それだけでも!」
「うーん」
「だ、だめですか…?」

ほらやっぱり、こんな空気に。
しかし不思議と後悔はしていなかった。それは多分、こんな時間にこんな格好をしてこんな所を一人でうろついていた訳や、彼女がそこまで言う付き合ってほしいところというのが何処なのかとか、そこまで輝く瞳の意味を、知りたかったのだと思う。

「まあミーは堕王子ほど薄情じゃないですし」
「堕王子?」
「お願いされてあげまーす」
「……え、って、いいんですか?!」
「場所にもよりますけどー」
「あ、ありがとうございます!場所は、ですね、あのっ最近の若い子たちが行くようなお店に!行きたいのですが…」
「若い子?」
「はい!少し前にテレビで見たんですけど、紅茶とか可愛い小物が売っているような、感じの…」

女はさっきまで真っ直ぐにこちらに向けていた視線を下げて、少し照れた様子で行きたい場所の説明をしている。最初に見た時からなんとなくそんな気はしていたが、この女は世間慣れしていない何処かのお嬢様なんだろうか。きっとそうだ。じゃないと真夜中に1人で男に声をかけて付き添ってほしいところがあるなんて常識的にずれている事を頼めるわけがない。そんな頼みを聞きいれるミーも常識的にずれているのは否めないんですけどねー。とにかく、彼女が言っているような店がどんなものかは理解したが、夜中の1時になっても開いているようなそんな店は生憎知らないし、というかそんな店がここら辺にあるのかと問われればNO一択だ。それを伝えれば肩を落として小さくため息を吐いてか細い声で「そうですか…」と呟いた。なんというか、露骨。

「そういう店に行きたいなら昼に来ないとダメですってー」
「昼は無理なんです…昼は外に出してもらえなくて、今だって見つからないよう抜け出してき……あ」

女は口に手を当てて言ってしまった!という表情になる。ほんと露骨だなーこの人。

「あーあ」
「こっ、この事はくれぐれも内密に…!」
「ミーとしては誰に言うのか教えてもらいたいくらいなんですけど」
「へ?」
「秘密にする相手がいないっていう話でーす」
「あ……そうでした、今日会ったばっかりですもんね、私たち」

今日というかついさっきだけど、と心の中で突っ込みをいれる。彼女が「なんだか不思議ですね」と微笑むから「ミーはあなたが不思議で仕方ないでーす」と呆れた口調で返しておいた。その言葉の意味を理解していないようで、首をかしげた彼女は何かに気付いたように「あ」と声をもらす。やっと自分の意味不明さに気がついたのかと思ったら、「映画館!思い出しました、もうひとつ行きたいところがあったんです!あの、映画館というところなんですけど」なんてとんでもなく唐突で中途半端なタイミングの提案に、呆れを通りこしてちょっと笑えた。

「あれ?私なにか変なこと言いました?」
「もう変すぎてミーはついていけませーん」
「え?」
「いや、別に。それで何でしたっけー?映画館?」
「あ、そうですそうです映画館!」
「映画館ならこの時間もあいてますけどー」
「本当?!」

それなら行きましょう!と続けて、女は無意識なのか勢いなのかミーの腕をつかみぐいぐいと引っ張っていく。その行動に少し驚いたが、あんた映画館の場所知らないんじゃないのか、なんて考えたら呆れてしまって、でも方向的には合っているので何も言わずに大人しく手を引かれた。





手を引かれながら道案内をして辿り着いた映画館で、彼女は食い入るようにして壁に貼ってある映画のポスターを見つめた後、見たいものが決まったのかうきうきしながらチケットを売っている受付へと向かい、壁にもたれて待っていたミーのところへ戻ってきたときには右手にチケットを2枚と左手に特大サイズのポップコーンが握られていた。

「そんなサイズ食べきれるんですかー?」
「だってすごく美味しそうだったから、ここは特大サイズかなと!あ、一緒に食べましょうよ」
「まあいいですけどー」
「ふふふーんキャラメル味ですよ!」

話しながら目的の映画が放映されるシアターを探して、席は彼女が真ん中がいいと言うのでぴったりど真ん中の席に並んで座った。隣からはあまり聴いたことのないメロディーが鼻歌にのせられて聞こえてくる。ミーたち以外に他に客はいないようで、鼻歌に耳をすませながら少し硬いイスに背をあずけた。しばらくして映画が始まる。内容はどうやら恋愛ものらしく、何処かで見たことのあるような景色の中に女と男が立っている姿がスクリーンに映っていた。二人の席の間に置かれた特大サイズのポップコーンに手を伸ばす。2粒ほど掴んで口に放りこめばキャラメル特有の甘みが舌に絡みつく。

「ねえ、私を連れ去ってくれないかしら」

スクリーンの中の女が言う。ベタな台詞だけど、こんな序盤からそんな事を言うなんてなかなか珍しいような。そんなに映画を見ないから断言はできないけど。隣を見れば、彼女はポスターを見ていた時と同じように大きな画面に釘付けになっている。少しだけ口を半開きにしている横顔は、スクリーンの青白い光に照らされて怪しく光る。なんとも言えない感情が押し寄せてきて、再び前に視線を戻せば画面の中では日常風景が流れていて、しばらく画面を見つめていたが次第に話に集中できなくなり、気付けばすっかり夢の中だった。





体が意思と反して揺れる。いや、揺さぶられている…?誰かの声が聞こえる。あのーだとかもしもしーだとか、控えめな声が耳に届く。そうえいば名前教えてなかったなー……ん?誰に?
重い瞼を少しだけあげれば誰かが自分の顔を覗きこんでいた。あぁ、どっかの金持ちのお嬢さん。うっすらと開いた瞳で確認すれば、それはついさっき知りあったばかりの女だった。そっか、映画見てて、途中で寝て……とまだぼうっとする意識の中で何があったか思い出していると、ふいに何かが唇をふさいだ。

は。

ふさがれた唇。ふさいだのも唇。それはすぐに離れていった。一瞬にしてぼんやりしていた思考が覚める。目を見開いて斜め前に立っている女を見れば、呑気に「あ、起きました?」なんて言うもんだから、さっきのは夢だったのかと錯覚してしまいそうになるが、あの感触は確かに夢なんかじゃなくて。

「映画終わりましたよ。寝ちゃうのなんてもったいないくらい面白かったのに!」
「あ……え?」
「でもそれくらい疲れてたんですよね。ごめんなさい。連れまわしてしまって」
「…いや」
「もうそろそろ帰りましょうか!」

何事もなかったように、寝る前に見たときと何も変わらない調子で話す彼女を見ていたら、本当にさっきのあれは夢だったんじゃないかと思ってしまう。なんだか詮索する気にもなれなくて、女の笑顔が気にしたら負けだと言っているようで、それ以上そのことについて深く考えないようにして席から立った。そして席から離れようとした時、隣の席に置いてある大きい紙の器にまだ大量のポップコーンが残っていることに気付く。3分の1も減っていないくらい大量に。

「食べないんですかー?」
「え、あぁ、やっぱりお腹いっぱいになっちゃって!」
「もったいないなぁ…」
「え!あ、あー……食べます?」
「……しょうがないですねー」

イスの上に置いてあった容器を片手で抱えるように持って、今度こそ席を離れ劇場を後にした。さっき通った暗い夜道を引き返しながら、女は3歩ほど前を歩いて楽しそうに鼻歌をうたっている。映画ひとつでこんなにご機嫌になるなんて幸せな人だなー。彼女の残したポップコーンを食べながらのんびり歩いていたら、鼻歌がぴたりと止まり、女がこちらを振り返った。白いワンピースの裾がひらりと揺れる。ヒールが地面にぶつかる音が夜に反響する。

「ねえ、私を連れ去ってくれないかしら」

スクリーンの中の女優と目の前にいる女の姿が重なった。それは映画の中で聞いたはずの台詞なのに、彼女はただそれを真似しているだけだと分かっているのに、一瞬本当に自分に対して紡がれた言葉だと勘違いしてしまいそうになった。何と返せばいいか少しためらったが、ただの真似事だと言い聞かせ適当にあしらうような言葉を返した。

「よい子はお家に帰りましょー」
「私よい子じゃないです」
「家出少女もお家に帰りましょー」
「あ、ちょっと大きな声で言わないでください!」
「誰も聞いてないですってー。それより、何で家出なんてしてきたんですかー?」
「あぁ、私明日結婚するんですよ」
「…え」
「結婚って言ってもいわゆる政略結婚というものなんですけど、結婚してしまったらそれこそ外に出してもらえなくなるから、最後くらい普通の女の子みたいな事がしたくなって、それで抜け出してきちゃいました」

あー…いきなりすぎて頭がついていかない。
まず家出してきた理由をそんなにもあっさり口にしてしまう事に驚きなんだけど、しかもその理由がまた映画やドラマでしか聞いたことのないものだったから更に驚きで、あと、普通の女の子はこんな時間に映画を見て街をふらふらしたりしないってツッコミもいれたいところだ。それを上手く言葉にまとめられなくて、黙ったまま女を見ていたら、彼女はこちらに歩いてきながら話を続けた。

「普通の女の子になりたくて、このポップコーンも甘い味にしてみたけど」

目の前まで来た女はポップコーンを1粒口にすると、「やっぱりダメでした」と呟く。何がダメなのか疑問に思うも口には出せず、もぐもぐと動く彼女の唇を見つめていたら、それは楽しそうに弧を描いた。それを見て、どうしてか、自分はまだまだ子供なのだと思い知らされる。年上だが自分よりもずっと幼さの残る言動や行動、どうしてこんな時間に家出なんかしてきたのか、いきたい場所もその理由も、キャラメル味のポップコーンがこんなにも残った訳も、なんとなく頭で理解していても何故か納得がいかない。それは多分ミーの方が彼女よりもずっと子供だからなんだろう。

「私、甘いの苦手なんです」

夢かと思ったあの唇の感触は、また現実を呼び戻すように自分のそれと重なって、これがただのお遊びなのか映画の真似事なのか何の意を込めたものなのかミーにはまだ理解ができなくて、ただ舌にまとわりつくのはキャラメルの甘さだというのに、どうしてこんなにも、苦い。



宝石


海を泳ぐ魚


讃歌


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