風景

 2

 だけどもう、今までのように歯車は回ってくれないのは知っている。
 狂い始めていたのは私じゃない。
 ――――世界の、理なのだから。


 *  *  *


 ざわりと揺れる木々の中、箒を手に持った私は参道を突っ切り、本殿の傍にある福屋(土産屋)へと足を運んだ。巫女服姿の女性がすっと顔をあげ、私を見ると同時に目を見開いた。私は自然と笑みながら「こんにちは」と形式的な挨拶を告げる。
 女性は表情を和らげて、目尻を下げてくれた。
「こんにちは、潤ちゃん。今日は巫女さんになるの?」
「はい。本殿の掃除は終わったので」
「そう。それじゃあ、こちらへいらっしゃい」
 手招きされて、私は迷わず目の前の木の扉を押し開ける。腰辺りまでしかないそれは柵のようで、昔はよくよじ登って中に入っていたことを思い出してしまった。
 女性は緩やかな黒髪を束ねなおした後、そばにかけてあった羽織を手渡してきた。
「やっぱり去年より大きくなったわね。そろそろ替えなきゃダメかな?」
「叔母さんもそう思う?」
「うん。さすがにもう立派な中学生ね。あ、ちょっとここで待っててね、すぐ戻ってくるから!」
 パタパタと走っていく叔母さんは相変わらず元気だ。参道を抜けて神社の敷地から出て行くあの人を見ていると、不思議と心が穏やかになる。
 羽織を肩にかけて、まだ春の訪れが感じられない空気に手を赤くしながら、福屋の目の前に立っている御神木を見上げる。
 もしもあの人がここにいたなら。大きくなったと言って、笑ってくれただろうか―――
「なんて、考えても無駄か」
「何がだ?」
「色々とね。急に話しかけるのは止めてくれる?」
 月読命から生み出された時神と名乗る『人ならざる者』。昨日から私の家に居候する事になった如月は、私の言葉にすっと気まずそうに視線を逸らした。
 幽霊でもないのに。神なのに。そういった仕草は人間らしいなと思う。
「悪い」
「謝らなくてもいいけど」
「……お前、一つ言っておくけどな。発言するなら心中だけにしたほうがいいんじゃねぇのか?」
 言われて、私は口を噤んだ。
―――――忘れてた。彼は『人ならざる者』。誰にも見えない事をすっかり。根っからどうでもよかったからつい。とってもどうでもよかったからつい。
「……わざとかその言い回しは」
「黙って」
 話しかけちゃうでしょ。心の中でそう呟けば、彼はぐっと言葉を詰まらせて項垂れた。
昨日の余裕っぷりと打って変わって、彼の中ではどうやら私は扱い辛い人間だと認定されたらしい。原因は恐らく昼食後の部屋掃除の件だ。手っ取り早く追い出したのがよほど効いたらしい。
これもこれで、優越感があっていいかもしれない。
 ふと、如月は顔を上げた。端正な顔の中に映える、ふきのとう色の黄色い瞳が鋭くなる。冷淡な色の光に少しだけどきりとした。
「外が騒がしいな……悪鬼が出てきたか?」
――悪鬼?
 俗に鬼と呼ばれるような類には会った事はあるけど、悪鬼は中々ない。私が首を捻ると、如月は「ただの独り言だ。気にすんな」と呟いて、とんっと福屋の壁に寄りかかった。刀を所持しているせいか、その様は凛としていて見惚れるものがある。
 言われたとおり悪鬼の事は放っておいて、私は福屋の商品を指で弄ぶ。午後になってきたせいか、視界の端で参拝客が段々と見え始めた。小さい子供も何名か遊びに来ていて、老若男女が参道を歩いていく様子は今も昔も変わらない。
 そういえば、如月は神だから社はあるの?
「ある。と言っても、既に墓場同然の扱いだろうな……手前(自分)の住処は手前でどうにかしろって話だろうが、今まで俺達は寝てたからな」
 一瞬、目を見開いてしまった。
 寝てた?
 如月は言った後、しまったと口を手で押さえて俯いた。
「……あー……手前が相手だと喋りすぎる」
 それ、褒め言葉として受け取ってもいいの?
 如月は呆れたように溜息をついて、薄っすらと笑った後口を開いた。まるで懐かしむような、悲しむような目で。
「神は信仰だ。それ以外で俺達は成り立てない。俺達の存在は人の想う心によって、認識されるんだよ」
「認識……」
「口に出てんぞ。……簡単に言えば、信仰されなくなったから廃れていっただけだ」
 如月はぽつりぽつりと、語りだした。
 明治に入ってから、人々の生活は大きく変わってしまった。変わった中で、日本人が神を信仰する気持ちは次第に薄れていったらしい。大きな神社に祭られている祭神達の多くはそれでも構わなかったようだけど、小さな祠に祭られるような小神、土地神は徐々に姿を消していき、時神も例外じゃなかっただけの話だそうだ。
 ただ、神は人と違って生もなければ死もない。完全な存在にして不完全な存在だ。例え信仰が消えても誰かがもう一度拝んだり、信仰したり、いる事を信じてくれれば何度でも甦られる。それまでは、活動を停止させて眠りに入るとかなんとか。
……私が信じた、から。
「そういう事だな……おかげで俺達時神がばらばらに目覚めてるのもそのせいだ」
 …………じゃあもしかして、如月が私の目の前に現れたのも偶然じゃなくて。もしかすると時神が訳あってばらばらなのって……全部……。
「―――――私のせい?」
「どうだかな。来たぞ」
 はっと顔をあげると息を切らした叔母さんが目の前までやってきていた。慌てて背筋を正した。叔母さんの手の中で赤色が揺れている。新しい巫女服だ。
「はいどうぞ、巫女さん」
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。それじゃあ、私は暫く別のお仕事をするからここは頼んだわね」
 優しい手が伸びてきて、私の頭を軽く撫でていく。四十近いというのに叔母さんは元気よく駆け足で神社を出て行った。相変わらずなんというか、一児の母らしくないような気がする。
 如月は叔母さんの駆けていった方をじっと見て、少しだけ目を伏せた。
「いつも手伝ってもらってるのか?」
「え? あ……うん。私の両親が、本当は神社を管理しなきゃいけないはずだったんだけどね。昨日も言ったとおり、今はもういないから。かといって、私が神主をするにもまだ中学生だし。だから今は保証人みたいな形で親戚の人の力を借りてる」
「……神社庁の人間にとやかく言われなかったのか?」
「さあ、言われたとしても、言われたのは私じゃないから分からない」
 この形で神社を私達の一族が受け持つようになって早十年。少なくとも、国の人間が小さな子供相手にぐちぐちと言うなんてするはずがない。
 当然言われたのは叔母さんか叔父さんか。申し訳ないといえば申し訳ないけど。
「早く大人になれたらいいのに」
 そうすれば、自分の力で立つくらいはできるのに。上手くいかない子供の立場だと歯痒く思う。
 如月は、私に問いかける事を止めて、ふきのとう色の瞳をただ御神木へと向けていた。
「この時代にも、この時代の苦労はあるんだな……」
「……苦労?」
「時代が変わるにつれて人も変わる――土地も考えも、迫害された存在も。時が経てば扱われ方は変わるんだよ」
 ――時の神だから、だろうか。
 憂いを帯びた目が空を見上げたのを見て、私はそっと視線を下げた。
「手前のみてぇに、幼子の頃親を亡くしても、様々な『人ならざる者』が見えれば確実な地位は与えられていた時代がある。何百年も昔の話だけどな、虐げられた人間は時代の波に呑まれる存在でしかないんだよ」
 時代によって何もかも変わる。
 如月たちのような神が、次にまた眠り、目覚めた時。私のような人間が救われるような世界もあるかもしれないのだろうか。
 そう考えると、遠まわしに気に病むなと言われたような気がしなくもない。
「……だとしても、普通があるなら必ず異常は見つかる。異常な存在そのものが救われる時は、ないと思う」
 だって、世界はそんなに甘くないのだから。
 私が溢した言葉に、如月は曖昧に笑うだけだった。


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