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「きさ……らぎ?」
目の前の背中にそう呟いて、私はゆっくりと如月から離れる。彼の横顔を見れば、かなり冷や汗を掻いていて、けれど楽しんでいるように口元が弧を描いていた。
「潤、そいつを逃がせ」
巨大な髑髏の歯と如月の間に、一本の刀が見える。頭の片隅で銃刀法違反者だなんて単語が過ぎるがそれどころでもない。唖然と硬直しているひのえを境内の中へ引っ張って、それからひのえの隣でぼぅっと立ち尽くす。
髑髏の歯が軋み始めた。
ガタガタと鳴る骨からしわがれた老婆のような声が轟く。
『にくにくにニク肉肉肉肉にくうううううううう! 喰わせろおおおおおおおおおおぉ!!』
――ズルリッ
「やなこった」
粘つくような動作で、刀が頬骨をなぞる。大きな骨だと言うのに、たったそれだけで。ガラスに衝撃を与えたように。いとも簡単に皹が入った。
ぱらぱらと白い粉が落ちていく。
『な、なああああああアア!! 嗚呼嗚呼だ、だだだ誰だお前、アヤカシが祓いの力を何故何故使え肉、肉肉ニクにくううううううううううっ!』
余裕な足取りで如月は後ろへ三歩下がる。尚且つ、同様の声音で髑髏を嘲った。
「いちいちいちいち耳元でうっとうしいんだよ、てめぇ。こちとら起きたばっかなんだよ。最近の化け物共は手前みてーに頭とちくるってんのか?」
刀が、空へと掲げられた。
「それからな、俺は妖怪じゃねえ」
骨が砕ける。
吹っ飛んだ破片がぶつかり、弾ける。
ポタポタと、藍から紅が滴る。
醜悪で、けれど美しい――人ならざる者の世界。
「俺はただの、神様って奴だよ」
神と名乗った如月は。
やはり、『人ならざる者』だった。
* * *
「潤、これは一体どういうこと?」
ひのえの真剣な問いに反して、ボーンと鳩時計が夜の二時を告げた。向き合う姿勢の私達を見つめ、壁に寄りかかっている如月は半ば眠そうで。全く緊張感がない。先ほどの髑髏の叫び声が耳を打った気がして、私は視線を前へ向けた。濡れた瞳と目が合う。
「聞いてるの?」
「聞いてる」
「じゃあ三ハイ! 私はさっきなんて言った?」
「それは、」
答えようとする私の口を、どういう訳かひのえが塞ぐ。
……質問してきたくせに何故。
「それでは次の番号から選び、答えよ」
模式的な言葉は朗々としている。彼女は白い指を立てた。
「一番、これは一体どういうこと? 二番、昨日の給食美味しかった? 三番、今日も可愛いね潤。さあどれでしょうか!」
「どこをどう考えてもホストみたいな台詞とかただの世間話じゃなくて一番しかないでしょひのえさん」
一体何を言い出すのやら。冷めた目で答える私に、ひのえは楽しそうに指を振る。小鳥の囀りのように彼女は宙へバツ印を刻んだ。
「ブッブー。違いますよー、潤さん。正解は隠れ四番のあの和服でカッコイイ男の子とどういう関係? でした」
嗚呼そういうことか。
私が納得すると如月が眠そうな目をだるそうに開いて、溜息をついた。
「お前ら、真面目に話せよ。さっさと終わらせないと夜が明けんだろ」
どこか苛立たしげにも見える表情の彼を、ひのえが鼻で笑った。聞こえない振りをしようかと思ったけど、続けて言われた彼女の言葉に呆れ果てた。
「黙れ大道芸人。私の潤とのラブタイムを邪魔すんな帰れ」
「おいふざけんなよ手前。さっき人のこと褒めといてそれか? あ?」
不良VS純粋(?)少女の対決が始まりかけた為、私は押入れから即座にピコピコハンマーを取り出し、二人の脳内へヒットさせる。
屍が二つできたのは、言うまでもない。
「それで。結局ひのえはどの質問をしたいの」
あいたたた、とお婆ちゃんじみた台詞で起き上がりかけたひのえの上に馬乗りになる。
ぐえっと蛙が潰れたような声が聞こえたが、無視。「早く」と急かせば、彼女はあうあうと喚いた後、抵抗を諦めてぽつぽつと話し出す。
「えっとまず――さっきの化け物って何なのかなあ? って……何か自称神様のオタクってる如月君があれと戦ってたし。その如月と潤が関係あるなら――教えてくれるかな?
私が今一番聞きたいのはアレが何かだよ」
予想はしていた。当たり前の質問だから。
だけど、無理な質問だろう。ひのえの言った事は。だって私には、どうすることもできない。言ったところで、彼女の目の中で私が化け物と認識されるだけだ。
それだけは避けたい。何としてでも、避けたい。
馬乗りの姿勢のまま何もできず黙っていると、視界の隅で黒塗りの鞘から刃が抜かれかけていたことに気付く。
「おい人形女。神に対して日本語の使い方がわかんねえってんなら、今すぐ叩き込んでやろうか」
「結構。あなたのようなオタクに教わる尊敬語は邪気眼しかないんで」
「表出ろ」
「上等だ大道芸人!!」
「とにかく二人は一度シリアスって言葉覚えて出直して来い」
再び畳に二人を沈めて、私はピコピコハンマーを手で弄び、うんと頷く。
とにかくこの場は誤魔化そう。
私にとってできる術は、世界でたった一つ。それだけだから。
「ひのえ。さっきの質問だけど。私にもアレは何かわからないよ。それから如月はただのオタクだから気にしないで」
「あ、やっぱりそうなの? そういうマニアックなそっち系?」
「……そっち系ってどっち系?」
「どっちもそっちも俺を侮辱してんのに変わりねえだろうがあああああああああ!!」
――あああああああ!
と、広い日本家屋の中に如月の声がやけに響いた。
その後は何とかひのえの質問から話を逸らし、なんとか丸め込んで一端彼女を家に帰らせることになった(「途中まで送る」「いいの?」「おう、地獄まで送ってやろうぜ」「よし潤、私と天国まで一緒に逝こう!」「わあ。不吉」)。……途中阿呆くさい会話も混じったけれど、とにかくそれは気にしない。
それにしても、今まで私が襲われた事は片手で数えられるほど。知人が襲われたなんて、一度もない。今日は厄日か何かだろうか。
いつもではあり得ない事が、立て続けに起こっている。
「ったくあの野郎、次会ったらあいつに掛かってる加護引っぺがしてやる」
布団を準備していると、如月が刀を枕元にやってそう呟いた。ふとそこで、私は我に帰る。加護がどうのと言う藍色の背に、語りかけた。
「本当に、神様なの?」
神様もどきならいくらでも会った。でも、神様本体は一度だけしか遭った事がない。真偽を疑った質問にさらりと自称神様は答えた。
「ああ。時神っていう神の一人だ。聞いたことぐらいあんだろ? 日本神話によく出る月読命(つくよみのみこと)っていう月の女神。そいつから生み出された神なんだよ」
日本神話なんて興味の対象外だ。あまり知らない単語だらけで首を傾げると、それでも日本人かと頭を軽く叩かれた。知らないものは、知らないのに。
「ま、神様どうのこうのはまた今度だ。もう寝ろよ」
そう言って、背中を押された私。
部屋を追い出されると気づいて振り返れば、案の定すぐに障子は閉じられる。まるで拒絶を意味しているように見えた。思わず苦笑いする。家の主は私なんだけどな。
けれど、それだけ彼は私に一線を引きたがっているという事でもあって。何だかそれが自分を見ているようで、止めておけばいいのに黙っていられなかった。
「如月、」
そう。私は決して優しくない。
いつだって自分本位だ。自己中だ。だから、
「私は、信じるよ。如月のこと」
信じるのは、タダだ。誰も、損なんてしない。
少なくとも、彼らは『人ならざる者』なのだから。
「……馬鹿だろお前」
照れくさそうに呟いた如月の声は、とても心地よかった。