風景

 「手のひらの約束」

 もしもあなたを好きだと言ったならば、あなたは泣くでしょうか。私があなたに殺された事を、幸福だと思ったといえば。あなたは泣く事はなく、ただ怒るのでしょうね。
 そんな優しいあなたに殺されることを望んだ私は、なんと愚かしき女でしょう。
 けれど、どうか、これだけは、許してください。見果てた今尚、私はあなたを想います。移りゆく季節の中でも、いついかなる時も、あなたの記憶の中で生き続けます。
 たとえそれをあなたが苦痛に想おうとも。

 どうか傍に、いさせてください。


「さて。あっしはそろそろ行こうかねえ」
 目を点にする私に反して、片目を瞑って葉月は―――ニヒルに笑う。
「どうかしやした?」
 唾を飲み込む。
 獲物を捕らえた猫のような、アーモンド形の瞳を直視できず、私は俯いた。如月は、縁側に立つ彼女を一瞥して刀を握る。
 鞘が、するりと腰の帯へと差さされる。
「次はいつ来るんだ?」
 まるで最初から分かっていたように、如月は穏やかに言った。紫の瞳は、朝顔の花のように大きく見開かれた。けれどそれは一瞬で、直ぐにまた猫の目に戻った。おどけた表情は道化のように、引き締まる。
「気が向いたら、来てやりましょうかねえ。春の坊ちゃんはホントに世話が焼けやす」
「おいコラ。誰が坊ちゃんだ。前の名前で呼ぶのは嫌味か?」
 仕方なさそうに肩を竦める相手に、如月は本気で刀を向けたそうにしている。拳を見れば震えているのは丸分かりだ。こういうところを見ると、時神というより友人同士の会話に見えてしまう。
 でも葉月は、多分―――
「さてお嬢、旅行は好きですかい?」
「……ん?」
 お嬢、と呼ばれた私は顔を上げた。いや、本当は違うだろうと思いたいけど――生憎合っていた様で葉月は楽しそうに笑っている。私の頬は珍しく引き攣った。
 もう一度言う、楽しそうだ。
「旅行、って何が?」
「旅行は旅行。トラベル以外の何があるってんでい」
 楽しそうというか、これはもう狂気さえ感じる愉快さと言うべきか。嫌な予感がした私は丁重に断る意味で、首を横に振った。聞いた私が馬鹿だったとさえ思う。
「いい、嫌いだから」
「そうですかい、そんなに好きですかい」
 八月の管理者は、どうやら日本語の通じないヒトらしい。否、ヒトじゃないけど。
 ――――ヒトじゃ、ないけど!
「ちょ、ちょっと待って。私は」
 ふわりと、両腕に抱きすくめられて、油断した隙に体は宙に浮いた。睦月のものでもない花の香りが鼻腔を掠める。軽やかな声が耳をうった。
「んじゃ借りていきやぁーす」
 ああああもう、果たしてこれでいいのか日本の神は。日本語の理解できない日本の神がいていいんだろうか。私的にも神社的にも嬉しくないはずだけど。
「っ如月!」
 俵担ぎされ、抵抗できるはずもなく。私は期待を込めて如月を見た。彼はお茶を口に含んで、私の視線に気がついたのか、湯飲みから口を離す。
 そして満面の笑みで―――手を振った。
「行ってら」
「ああもう神様止めてしまえ!!」
 腹いせならいくらでも受けていいけど、このタイミングはよろしくない。私は現在進行形で人攫いにあっているのに。守ってくれるのは嘘なのか。そっか、嘘だったのか。
 よし、帰ってきたら速攻で豆をぶつけよう。確か豆は厄払いの意味があったはずだ。鬼にはもってこいだ。
「葉月、攫うなら攫うでいいから、後でスーパー寄って」
「どこの世界に人攫いにスーパー寄れって頼む巫女がいるんでい……」
 身の危険を感じたのか、如月はやべぇと呟いて顔を背けた。葉月は葉月で、人攫いらしからぬ表情で溜息をついている。その顔は同情を通り越して呆れていた。
「というか、何であっしが攫うことに無抵抗なんでい? 竜神とことに行くんだから普通は逃げるもんだろい?」
「今抵抗したら落とされるか落ちるか。それは普通は勘弁でしょ。それに睦月と神無月が止めに来ないってことはさほど危険じゃない。……勝てるとも思えないし」
 言われた当人達は如月同様顔を背けた。何気に見ている方向も一緒で。どうしてそんなところだけ似ているのか問いただしたい。一番問いただしたいのは、何故私をあえて葉月に連れて行かせるかってことだけど。
 まあ、それは彼らに考えがあるという事で、今は聞いても無駄だとは思う。
「随分と物分りのいい人間なこって」
 葉月は苦笑すると、私を担いだまま歩き出した。振り向いた先に、世界が捩れている巨大な円を見つけた。あれは多分、前森で見た異界への穴だろう。
 彼女はふと、わざとらしく思い出した様子を繕って、如月達の方を振り返る。
「そうそう。これからは敵同士、お互い頑張りやしょうや」
 ふっと笑った彼女の目の前を、白い鱗が舞った気がした。


 異界の歪みに、二人の少女の姿は消える。それを見送ったふきのとう色の目を、睦月は冷静に見つめた。
「よいのですか? 葉月は敵であり、竜神についているのですよ」
「んな事は知ってらぁ」
 如月は眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに顔を歪めた。いかにも不服といった態度に、時神二人は眉を潜める。何故、大人しく行かせるように、自分達へ指示を出したのだろうかと。二人の心中を知ってか知らずか、白髪の少年は廊下の襖を開ける。
 春色の瞳に、少年少女の顔が映った。途端に如月の機嫌の悪さは流れる。代わりに、彼の背筋を悪寒が駆け抜けた。冷やりとした怒気さえ感じる。
「……お前ら、聞いてたのか?」
「ええ。えぇ、えぇ。聞いてましたとも?」
 清純そうな顔立ちに似合わない、暗黒の闇を纏った原井ひのえ。少女の白い指には幾数枚もの鳥を象った白い紙が挟まっていた。
「最初っから最後までぜーんぶ、なあ?」
 幼さの残る顔立ちには似合わない、漆黒の影を纏った神崎良。少年の固い指は関節の音が異様に鳴っている。如月の背中は悪寒どころではなくなった。睦月と神無月は素知らぬ振りで三人から視線を逸らす。
「待て。ちょっと待て。お前ら少しは話を聞け!」
「うるさい! 私の潤を敵に引き渡した挙句言い訳なんてしないで!!」
「お前は娘を取られて嘆く平安貴族か!」
「誰も政略結婚の嫁ぎ話なんてしてない! 確かに似た気持ちだけど違う!」
「似てんのかよ!!」
 ひのえの手から、白い紙が滑り落ちた。二人の忙しないやり取りに反した、ゆったりとした動きで、紙は呆気なく床に落ちる。それを見送った少女は、不意に黙り込み、紙の中央に膝を突き立てる。
 幼い子供が、泣いて訴えるように。ひのえは背中を弓のように張り、思い切り叫んだ。
「だって、だって! だってだってだってだってどうしてそんな危ないことしちゃうの!! もし、もしあの子に怪我なんてあったら、どうすればいいのっ!」
 丸い瞳の中には、今にも溢れそうな涙が溜まっている。バケツに張られた水を思い出すそれに、如月は何も言えなくなった。少女の言葉は、単純な心配と、母性に満ちている。わが子を心配して、半狂乱になる親のようだった。
 神崎は、指を鳴らすのを止め、ひのえの頭に手を伸ばした。同い年の友達でありながら、必死に宥めようとしているのだろう。けれど鋭い視線は、油断なく如月の方へ向けられている。
「オレはさ、自分でも自覚するほどの馬鹿だし何が起こったのか……全く分かんないし。さっきの話だって信じてるし。正直神様が見えてるだけで不思議だ。でも―――あんたが潤を傷つける気がないのは分かってる」
 如月の視線が、徐々に上がった。ピタリと叫びが止んだ。幼児の純真無垢な目に似た瞳が、二人を窺った。
 神崎は数歩、如月に近づく。まだ本調子ではないのか、ほんの少したたらを踏んで、壁に手をついた。それでも、真っ直ぐな瞳は、変わらない。正面からそれを受け止めた如月は、苦笑した。
 ―――金色の瞳を見て、少し思う。
「教えてほしい―――――どうして、連れて行かせたのか」
「……いいぜ、ついて来い」
 あいつも、こんな瞳(め)をしていたのだろうかと。


 あれから、私は逃げる素振りもないという事で、葉月に遠慮なく降ろしてもらった。彼女は一度相手を信じたら曲げないタイプらしい。私の方が心配になってくるほど、妙に『逃げない』と太鼓判を押された。
 ――――相当図太い人間でない限り、ここまで信じられると逃げれない気がする。
 獣道を黙々と進みつつ、木漏れ日を目で追う。前遠足に来たこの山は、今は前より少し暖かく感じる。水分を含んだ落ち葉と、ほんのりと寒さを帯びた空気が辺りを包んでいて、小さく足元を照らす日の光は、森を神聖な世界に仕立て上げていた。
 あの異界の歪みがここに繋がっていたとは。ちょっと驚きだ。
「ちょいと質問」
 私は視線を上げた。葉月は耳にかけていた長い前髪を整える。彼女の左目は、たちまち長い前髪に隠れた。そして、片目で、彼女は私を観察するような目で見てくる。
「何?」
 露骨に顔に出ていたのだろうか。葉月の口角が上がる。彼女のこういった妖しい笑みは、苦手だ。何を考えているのか分からない。恐ろしくなるほど、感情が読めない。
 ゆったりと、唇が動いた。
「あの少年とは、どういった関係で?」
「は?」
 あの少年。と言われて該当するのは、一人だけだけど。全く持って何故その質問なのか、いくら物分りがいい人間でも理解できないと思う。
 突拍子のない言葉は、一に続いて二に続いた。


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