風景

 2

 ―――――にゃあ

 猫は、茫然と硬直する私の前に降り立ち、しわがれた老婆の声で、笑った。
 そして二本足で立ち上がり、優雅に一礼する。
「いやはや、お早い再会のことで。何分失礼致します」
 訛りのある抑揚で、芝居じみた言葉を発する猫はつい昨日会った猫だ。如月は笑いを堪えた様子で、もう一度葉月の名前を呼ぶ。
 猫の名前は、葉月。
「……時神、だったの?」
 睦月は頬に手をあてて、誤魔化すように微笑み、神無月は睦月とはまた違った笑みで、猫の頭を撫でた。
「そっ。これは葉月。正真正銘の八月の時神」
 神無月が糸目を更に細めて言うや否や。猫こと葉月は縁側から外に降り、長い尻尾で小さな丸い円を描いた。黒い尾はよくよく見れば二股に分かれていて、長すぎる。
 葉月は砂を払うと、円の中に飛び込んだ。
 ――――パンッ
 爆竹のような音が、木魂した。同時に、円から濛々と煙が溢れる。咳き込みそうになって、慌てて服の袖で口元を覆った。
「っと、とと……」
 煙が溢れ出る円の中から、少女の声がした。耳を疑う間もなく、葉月は艶やかな髪を揺らして、たたらを踏みながら現れた。濃い紫色の目が、悪戯っぽく笑っている。深緑の袴とのコントラストに、健康的な肌はまるで朝顔を連想させた。
「こっちの方が話やすいんでぇ、ちっとばかしお付き合いくだせえ。慣れてないんで、少々見苦しいでしょうが」
 ふらふらとした足取りで、彼女は縁側に座った。体を斜めにして、私達を見つめる。耳の上で二つに括られた黒髪は、柔らかく、所々が跳ねていた。如月は口笛を吹いている。
「お前化けるとそんなんだったのか。以外に上玉だな」
 普段の如月からは出ないような言葉だった。驚いて彼の方を仰ぐと、どういう訳か楽しそうに、見た目の年相応に笑っている。葉月も楽しそうに声をあげて笑った。
「うっせぇやい。春(あずま)こそいくつか若戻りしてんじゃねぇか」
 彼女も猫の時とは比べ物にならない言葉遣いだ。混乱しかける私の頭の中を見透かしたように、睦月が咳払いする。
「葉月、如月。お話はそこまでです。あなた達が今するべきことは、潤様へのご説明でしょう」
「ああ、そうそう。んじゃ三人、後の説明頼みやしたよ」
 神無月、睦月、如月。同時に三人の頬が引き攣ったのはレアかもしれない。何の為に来たのだろうかと一瞬思ったけれど、そっと疑問は胸に隠しておこう。神無月は仕方なさそうに、一枚の紙を取り出した。
「姫さん、どこまで時神について如月から教えてもらっとる?」
「……月読命から作られて。十二ヶ月の神で、全部で十二柱。一ヶ月で一柱が管理していて、歴史を記す役割があるとか」
「そげん事まで教えたん……」
 如月がつい、と視線を逸らした。私は肩を竦める。
 半分は私のせいだから、なんともいえないのは仕方ないことだ。
「時神は、厳密に言えば月読命から生み出された閏月によって作られたっちゃん」
「閏月……って、四年に一回あるあの月? 一年の計算が狂わないようにするための」
「そう。月読命は、月を読む=Bそして閏月が計算を合わせる=Bんで、俺達がそれを記す≠よ。つまり、月読命があまりにも仕事が多すぎて部下を作ったはいいけど、それでも足りんかったから俺達十二柱が追加されたようなもんさね」
 葉月がふわりと欠伸をした。眠たげに頭を揺らして、のんびりと日光の中でまどろんでいる。睦月はふぅと静かな溜息を吐いた。
「閏月は私達に時神≠ニいう神格を与えました。私達は、元は妖怪、精霊、人間、動植物といった様々な者であり様々な時代の者でもあります」
「――じゃあ、皆神になる前は……」
「ええ、『生きとし生ける者』の他ありません。私は生前、平安と呼ばれる時代にて藤原家の末端の者でありました。如月と葉月は江戸に産まれ、妖怪でした。神無月はどうか覚えておりませんが」
「戦乱時代の宿木の精霊たい。覚えとって」
 さめざめと泣く振りをする神無月を横目に、私は額に手を当てる。
 死んでも人は神にはなれない。実際哲学的思考かもしれないけれど、人は人でしかないと思う。ならば何故、
「睦月は人でしょう? 人は神になれない存在じゃないの?」
 神に近づきすぎたイカロスは、蝋で固めた翼を溶かされ地に堕ちたというのに。
 睦月は驚いたように漆黒の目を見開き、暫くしてゆるりと首を振った。彼女の存在を強調する長い黒髪が艶やかに流れる。
「潤様、死ねば生き物は皆『人ならざる者』です。学校という、あの場におられた方々を思い返してくださいませ」
 はっとして思い至ったのは、晴子だ。
 彼女達は元は人間。だけど死んでしまっては、人間というカテゴリから外れることになる。故に彼女達は『人ならざる者』。
「そ、っか……」
「はい。そして、私達時神は小神であるが為、信仰を与え続けてくれる人間を必要とします。その肩代わりを行ったのが――紛れもなく閏月です」
 神が、人間の信仰を肩代わりした?
「それって」
「閏月は、昼子命(ひるこのみこと)という神に頼み込み、自らの体を作り変えて人間の体に転生し続ける生き神≠ヨと変貌しました。それにより過去、未來、現在。様々な時代を渡り歩くことができたのです。ただし、閏年にしか産まれないという誓約がありますが」
 神として形が変わる。それは民間信仰で神の形を歪められたものがよく起こる現象だからできなくはないんだろうけど。
 ヒトであり神でもある存在だなんて、存在が危うい。それこそ理がおかしいんじゃなかろうか。
 額に手を当てて、如月は溜息をついた。
「かの徳川家康公も生き神信仰の対象とされた。他にも天皇一族がそうだ。信じられれば、形はどうとでも変わる。けど――その分だけ性質は危うい。だから閏月は俺を隠れ蓑にして生き長らえたんだよ。不安定な存在だからな」
 閏日があるのは、二月。二月の二十九日こそが、閏月。
 段々と辻褄が合ってきた。小規模な話に思えて、実に大規模な話でもあるせいか。背筋がぞくぞくとする。
「俺達時神は、信仰が薄くなって江戸時代の終わりに眠りについたんよ。ほんで転生し続ける閏月に起こしてもらおう思っとったんやけどねぇ……この時代の閏月はおらん。そんな中、姫さんが俺達を起こしてくれたからよかばってんね。後数年起きなかったら地上は大混乱やったろーに。如月が仕事しない事で今も着々と土地に邪気が溜まっていくしのう」
「できるもんならやりてぇがな。他の時神探しが優先だ。節句の鬼払いを今の人間が続けているだけでそれなりに邪気は流れてるし、まだ安全だろ」
 鬼は外。そう子供達我口にする、あの行事ってそんな意味があったんだ。
 睦月がこほんと咳をして、場をとりなすように私を真っ直ぐに見つめてきた。紅を引いた唇がきゅっと結ばれている。
「今までの話が、閏月と私達のお話です。これから、少しずつまだ言えていない部分をお話するかもしれませんがその時はまたお付き合いください」
「……分かった」
 大体の事を話し終えて、三人はほっと安心したように息をついていた。葉月は考え込むような仕草をして、じっと畳を凝視する。紫水晶のような瞳は、鋭く細まっていた。
 何を考えているのか。首をかしげて、私はふと思い出す。
「ねえ神無月」
「うん? なんね」
「なんで、ずっと私に正体を隠してたの?」
 神無月は目を見開いて私を見てきた。茜色を見ると、どうにも目をちゃんと開けていたほうがかっこよく見えそうなんだけど触れないでおく。
 言葉に詰まっているのか、神無月は口を開けたり閉めたりして――俯いた。
「せめて、普通に生きられる道が残せればと思って……やから、途中から精霊の姿になってほとんど人間の振りはせんくなったやろ?」
 ちゃんと、普通に生きられる道を――――残してくれていたんだ。
 指先が震えて、ぎゅっと堪える。
 神無月は、ずっと傍にいてくれていた。時神を優先すべきはずなのに。ずっと。そうまでして私を大切に思ってくれていた。
 本当の、父親じゃないのに。私が本当は普通になりたかった事を見抜いてたのか。
 睦月や如月から来る視線から逃げるように、神無月は呟いた。
「……嫌になったりしてへん? 俺が傍にいた事とか」
「――まさか。いてくれなかったら、私は馬鹿なまま生きてたよ。
 ありがとう神無月」
 神無月は驚いた顔をして、嬉しそうに笑ってくれた。葉月も微かに笑みを浮かべて、目を伏せた。悩み事が、解決したかのように。
「いい娘をもちやしたねぇ神無月」
「当たり前ったいなんば当然の事じゃいいよんね!」
「父親と思った事はないけど」
 ショックを受けた顔の神無月が、静かに畳に倒れた。如月が呆れた顔で私と神無月を眺めてきた。
「手前ちょっとは言葉に加減くらい持てねぇのか」
「さあ、それは皆次第でしょ――神様とか居候とか以前にこれからも同じ屋根の下なんだし」
 ぱっと目を輝かせて、睦月が顔をあげる。
 如月が驚いた顔でぽかんと私を見つめてくる。
 葉月と神無月が、目を丸くして固まった。
 らしくなかったかもしれない。それでもいいと思える自分も、らしくない。だけどこれぐらいが少し、丁度いいと感じる。
 人と距離を置いてきた。だけど、相手は神だけど。
 一歩でも、近づいていけるなら――。


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