風景

 「旧人」

 見上げる空は、とても淋しい。雲ひとつない茜色は、焦げる様な衝動を人に与える。手を伸ばせば、この手をとってくれる人は居るだろうか。
 ―――――――ううん、居る筈なんてない。
 私は伸ばした手をぱたりと畳みに落とした。筋肉が切断されたように、動かなくなる。
 それでも手は、地面を這うように縁側へと進んでいった。体全体を動かしての大移動によって、ようやく体が日の光を浴びる。
 伸びている手を、不意に誰かの手が掴んだ。
「なあ、潤。何でお前は泣かねぇの?」
 畳に押し付けていた耳に聞、聞き慣れた神崎の声が聞こえる。私は瞼を開けて、目だけを動かす。縁側の外に、神崎が頬杖をついて座っているのを捉えた。
 私と似た大きさの手が、私の手を掴んでいるのも分かる。
「……何で、って?」
 ようやっと質問に言葉を返せば、彼は無邪気に笑った。ぎゅっと手の平を強く握られ、その箇所だけが妙にじんわりと暖かくなる。人の気も知らず彼の声は滑るように空気に流れた。
「風邪引いたなら電話しろってコトだよ」
 ――――――――――――――ああ。私は風邪を引いていたのか。
 どうりで暖かくて、寒いんだ。
 暖かさに惹かれるように、私は彼の手を握り返した。
「ねえ」
「ん?」
「電話、して、私が泣いたら、来てくれる?」
 神崎は目を丸くして、それから親指を立てた。明るい瞳は私だけを映している。
「絶対来る。だから泣けよ? 泣いてくれないとどのくらい淋しいか、分からないし。困るだろ?」
 きょとんとした顔の自分の顔が、彼の瞳を通して見えた。そんな自分を見るのが何だか妙に嫌になって、瞼をぎゅっと閉じる。
 閉じられた世界の中で、暗闇と茜色の光景が、交互に入れ替わった。
 ああやっぱり。あったかくて、さむい。

 ――――でも右手は、とってもあつい。


「おはよーう潤ちゃー……って早っ!」
 大きく襖を開けたひのえが、私の目の前で大袈裟に両手をあげた。丸く澄んだ目は見開かれ、けれど清らかな光は変わらず、どこか浮世離れしている。
 私は人差し指を口に押し当てた。ひのえは慌てて自身の口を手で塞ぐ。そしてそのまま、横になっている神崎の枕元に座った。
「ごめんね? まさかもう着替えまで終わってるとは思わなくて……」
「いいよ。どうせ神崎はしばらく起きないから」
 だって神崎だもの。苦笑交じりにそう言うと、ひのえは肯定するように口元で弧を描く笑いたいのを堪えているらしい、唇が若干震えていた。
 そんな様子に私も笑いを堪えていると、不意にひのえがまた驚きの声をあげた。さっきよりも大きなその声は、体の芯から耳まで綺麗に通過していく。
「今度は何?」
「えーいやいやいや、だってさあ、えー」
「言葉になってないんだけど」
「でも、だってねえ、これはさすがに」
「……ピコピコハンマー」
「や、何で手を繋いでイルノカナ?」
 私の呟きに、ひのえは棒読みで私の手を指差した。言われたとおり、私は神崎と手を繋いでいる。繋ぐといっても、弱く握っているだけであって果たして繋いでいると本当に言っていいものか。
 私の考えを知る由もなく、ひのえは食い下がる。
「ね? 何で繋いでるの? てか付き合ってたの?」
「違う。何となくしてるだけ」
 第一、 そんなにマセた覚えなんてない。
 きっぱりと私が断言すると、ひのえはつまらなさそうに唇を尖らせ、神崎から私の手を無理やり剥ぎ取った。例えるならマジックテープを剥がすような感覚だ。
 何故。
「とにかく。睦月さん達が話しあるらしいから行っておいで。神崎君は私が看ておくから」
「……分かった」
 神崎を見やった後、私は襖に手をかけた。ギシギシと廊下に足音が響く。
 早朝ともあって、廊下はまだ薄暗かった。
 足を進めるたび、昨日の言われた言葉を思い出す。如月が鬼だとか。邪気がどうとか。竜神の事とか。それから、神崎の隣で見た夢とか。どれも考え出しては切がない。
 私は廊下の窓から、境内を眺めた。チラホラと参拝者が見える。
「…………まあ、いっか」
 ―――悩まずとも、嫌でも答えはすぐ出るはずだ。
 食卓のある居間の襖を通りかかり、私は足を止める。気配が僅かにする気がして、慌てて三歩戻った私は、襖をするりと開けた。
 まず目に飛び込んできたのは、美しい姿勢を折り曲げて微笑む女性。
「おはようございます」
 言わずもがな。行儀よく挨拶してくるのは睦月だ。どうやら足音で次期にここへ来るのは分かっていたらしく、彼女の横にある卓袱台には湯気の出ている湯飲みが置かれている。
 一方如月はどことなく表情を曇らせて、俯いている。神無月にいたっては縁側に遊びに来た猫と戯れているから論外だ。
 溜息をつくのを堪えて、睦月に挨拶をしつつ私は如月の横に座った。
「それで。話っていうのは?」
 あえて睦月に問いかけて、本題を目指す。睦月は意図を察してくれたのか、深く頷いて――――土下座した。
「………………………は?」
 思わず間抜けな声を出してしまう。睦月は畳みに三つ指をつけたまま、喋りだした。絹のような髪が畳を黒に染め上げる。
「今回の件、全ては私達の責任です―――申し訳ありませんでした」
 前言撤回。人の意図は分かっていないらしい。土下座をしている睦月のそれは、誠意の篭った、精一杯の謝罪だった。
 けれど、謝られても意味が分からないし、理由も分からない。どうしてそうなったのかさえ不明だ。如月に視線をやると、如月も申し訳なさそうにそっぽを向いている。
「どうして、謝るの?」
 このままじゃあ埒が明かないだろう。睦月に問いかけると、彼女は如月に視線をやった。
 愁いの帯びた瞳が、しっかりと如月を映し、私を映した。
「如月はもとより、潤様と契約しています。我ら時神を再び集めることを条件に、あなたを守ると。ですが私達は守る対象のあなたを」
「だから詫びるの?」
 如月やその他時神が理由で、私や関係ない人間を守れなかった事。まさかそんな事で、私に土下座をするなんて。神は人間に早々頭を下げていい者でもないだろう。
 それに、契約と言っても、たとえ神でも。約束していたところでそれが本当に守りきれるなんて皆無に等しい。
「どっちにしろ、神崎の件は竜神が元々やろうとしていた事でしょ。今回は自主的に私が首を突っ込んだんだよ」
 竜神の口ぶりや行動からして、神崎家そのものに恨みがある。時神は関係ないはずだ。時神がいたせいで竜神のやる事に余計火をつけたとしても、それ如きのきっかけで謝られる筋合いはない。
「頭を上げて、睦月」
 事の内容と謝罪の重さ、釣り合わなければ聞いた所で何になる。
 睦月は、もうこれ以上の発言をする必要がないと感じ取ったのか。ゆっくりと体勢を元に戻し、口を真一文字にした。
 私は、今度は如月に視線をやる。
「如月も、いつまでそうしてるつもり?」
 そっぽを向いていた顔が、恐る恐る私に向いた。端正な顔立ちの中で、春色の瞳だけは―――淋しそうに揺らいでいた。
「……お前、怖くないのか?」
「全然。如月は時神なんでしょ」
 彼は、彼ら時神は、『人ならざる者』でありながら絶対に私を利用しようとはしない。食べようなんて思わない。それを確信しているし、如月が鬼あり神であっても別に問題はない。当人の如月は、困ったように眉を寄せているけど。
「まだ納得いかないなら、それでもいい。だけど竜神が言っていたあの邪気とか、私に与えた影響。時神についても、全部話して」
 今さらそんな顔をされても、私は後には退けないし。時神について何も知らないまま、これから契約を続けれる自信もない。今回みたいな事が起こったとき、私の為にできる限りはする必要がある。
「私は、如月に協力する。だからこそもう無関係じゃないんだよ」
 鬼は人から力を得るために、捕食する。けれど神は、それをしない。しかし如月は、けどと口を開いた。
「俺は時神でありながら本質上は鬼神と同格だ。おそらく俺の性質はお前の体にも影響しかねねぇ。何より、本当の俺は……」
「いまさら何言ってるの」
 馬鹿じゃない?
 そう呟けば、彼は言葉を堪えた。そして、心を探るように私と目を合わせる。
 如月は、しばらく私を見つめた後、薄く笑った。
「分かった」
 それから静かに立ち上がって、背中を向けている神無月に呼びかける。いつもの真っ直ぐな瞳が彼らしかった。
「神無月、そろそろこっち向け。お前らの方がよっぽど話すことあるだろ。葉月で遊んでっと怪我するぞ」
 葉月とは、どうやら猫の名前らしい。神無月は猫じゃらしを振るのを止めて、ひょいっと戯れていた猫の前足の脇を掴み、持ち上げる。そのまま振り返った彼と、猫に。
 絶句した。
 
 猫の紫水晶の瞳が、大きく瞬いた。ビロードのような美しい毛並みは夜を連想させる漆黒だ。


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