風景

 2

「っ!?」
 如月は、素早くグラスから指を離し、震える手で着物を握り締めた。手の真下にある心臓が、大きく脈打っている。
 一瞬の出来事だった。心臓を鷲みにされたような感覚に陥ったのは。神無月も同様のようで、いつもの糸目を感じさせないほど目を大きく見開いている。
 何かが、胸で訴えた。張り詰めた糸を切断した、そう合図するように。
「神無月、今のは……」
「……ああ。こりゃさすがに、何かある」
 穏やかだった空気は、たった数秒で緊張したものへと変わった。如月は縁側に置いていた刀を手に取る。
 同時に、襖が開いた。
「如月! 神無月!」
 睦月が勢いよく部屋に入ってきた。のはいいが、握られている包丁に思わず二人は青ざめかける。腕の延長のようなそれは睦月の白い腕には酷く似合わない。
「おま、料理してたんならせめて包丁置け!」
「あ、すみませ――ではなく! 今はそれ所ではありません!」
 睦月は神無月の持っていた日本酒に見向きもせず、普段は決して表に出ることのない焦りが表情に出ていた。ただ事ではないと如月と神無月は顔を見合わせる。伊達に長い間、時神として共にいない。
「どうかしたのか?」
「ええ、この社近辺――いいえ、町全体にたった今、大規模な呪詛と邪気が溢れました。御覧なさい、あの空を!」
 大規模な、呪詛。邪気。二つの言葉に、自然と神無月は如月を見やっていた。正確に言えば、彼の頭に乗せられている紺色の鬼面。
 所有者である少年は曖昧に苦笑し、空を見上げる。空は、どこか淀んだ空気を放っている。まるで水の膜を視界に貼り付けたように、空気が重たい。
「そういうことか」
 カタッ
 僅かに、鬼面が動く。睦月はようやっと落ち着いたのか、呼吸を整えると直ぐに表情を引き締める。
「邪気は私どもにはどうにもできません……如月、あなたはどうするつもりですか?」
 腰に刀を差して、如月は縁側を降りた。下駄が砂利を踏み、木々がざわめく。
「決まってんだろ。敵がやっと動いたんだ、尻尾掴むっきゃねぇ」
 鬼面を被り、不穏な空気の中一人佇む彼は、昔馴染みの二人でさえ夜叉のように見えた。風に揺らめく焔のように着物の袖がはためく。
 同時に、如月の背後で草薮が蠢いた。三人は一斉に藪を見やる。
 ガサッ ガサガサガサガサササササ
 極度の緊張が走った刹那。
「ただいま」
 藪から、顔とを手だけを覗かせた潤に、神無月は顎が外れそうになる。
「潤ちゃあん!? どっから出てきてんの!?」
「嫌な予感がするから、とりあえず抜け道使って帰ってきたの」
 潤は、草の茂みから無理やり体を引き抜く。葉と枝だらけになった姿を見て、慌てて睦月は素足で外に出て、それらを払った。
「どっちにしろ帰り道だって危ねぇだろ」
「あ、それは大丈夫」
 如月の溜息交じりの呟きに、平然と潤は応える。と、潤の背後、草薮が大きな音を立て始めた。
 ガサッ ガサッ
「はろはろー?」
 くるりとした丸い瞳。純真無垢な笑顔で藪から出てきたのは原井ひのえだ。手を元気よく振って第一声に挨拶をかます彼女に、時神一同の頬が引きつる。
 こういうことか。
「何よーその顔は。私の潤が危ないかもしれないのに文句ある人いらっしゃる?」
「いえ、決して文句はありません」
 首を横に振り、睦月は脱力した。そんな彼女を見て、小さく笑った潤は空を見上げる。
 つられて、全員が空を見た。さすがに冬の季節ともあって、暗くなるのは早いようだ。段々と闇が覆っていく空は、邪気に蝕まれ始めたこの街を思わせる。
 もうじき、夜がやってくる。
 邪気の天下である、夜が。


 確かに、帰ってくる時は散々だった。もしひのえが居なかったら、今頃八つ裂きにされていたんじゃなかろうかと思うぐらい、『人ならざる者』が奇襲してきて。ひのえが陰陽師でよかったと思う。
 つい最近までは普通の子だと思っていたのに。
「それで、どうする?」
 神無月の一言に、私たちは視線を空から外した。肌を伝う汗は、この街全体を包む異様な邪気と空気のせいだ。
 それらをどうするか、皆が真剣な顔になっている。
「まずこの街に掛かった呪詛は解かないとな」
 如月は鬼面に触れて、溜息を零したあと、被っていた鬼面を外す。続いて縁側に置いてあった日本酒を手に取った。
 どうして日本酒が家にあるのか、何故お面を被っていたのか、私が突っ込む前に彼は酒を睦月に投げ渡す。滑らかな動作で睦月はそれを受け取った。
「悪ぃ、睦月。……厄払いの清酒、頼めるか?」
 一体何をするつもりだろう。
 神妙な顔の如月に、睦月は淡く微笑んだ。
「勿論です」
 僅かに香る、椿と酒の香り。彼女は着物の袖から朱塗りの器を取り出した。
 ―――杯だ。
 小さく丸いその円は赤い満月のような、究極の丸。
「睦月さん、それで何するの?」
 興味心身なひのえに、睦月は応えない。代わりに神無月が、おどけたように笑って答えた。
「清酒造りだよ。睦月の十八番なんや」
 標準語と方言が混ざった彼の発言は、まるで一人の人間の台詞を何人もの人間が読み上げているように聞こえる。ひのえはそれを気にも留めていないようで、じっと睦月の杯を眺めている。
 ――――――――――チャポンッ
 注がれた酒は、杯の中で揺れる。桜色の唇から、静かに声があふれ出した。
「我 透す世界に穢れなき 数多の邪気 払いたもう=v
 ――――――――――チャポンッ
 杯の中に、また波ができる。波紋をじっと見つめていると、微かな変化に気づいた。少しだけど、曇りが晴れている。
 元から酒は透明だった。けれど、波紋が消えた酒は神聖な光を放っているように見えて。透き通る酒には一切の穢れがない。
「いいですか? 一度きりです。大事に使ってください」
 今度は袖から小さな壷を取り出して、酒を壷に入れる睦月。言われたであろう如月は若干苦い顔だった。
「さて。これで対策は万全。後は邪気と根源をどうにかせんと」
 神無月がぱんぱんと手を鳴らす。
 根源、か。
「ねえ、神崎の家に行ってみない?」
「神崎?」
 ひのえが拱手して、提案をあげる。
 神崎の、家……?
「何で神崎の家な」
「あ!」
「…………どうかされました?」
 言葉を遮られ、こっちを睨んでくる如月から私を庇うように、睦月は私に尋ねてくる。言葉を口に出すのが、酷く恐ろしく感じられた。
 そうか、ひのえが言った意味はおそらく、
「もしかしたら、竜神が神崎の家にいるかもしれないんだ」
 ぎょっとする三人に、ひのえが俯くのが分かった。
 多分、ひのえの考えはこうだろう。
 次々と倒れた女性達。最初は蛇の抜け殻、二回目は死体。これは恐らく見せしめだ。刻一刻と時間は迫っている事を知らせるための。
 何故山神の邪神をあそこに置いたのか。それはあの家を壊すため。どうして竜神なのか。それはきっと、何か別の理由があるんだろう。
 今この瞬間、何故この街は呪詛に包まれたのか。多分それは―――
「狩り時、だからだ」


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