その日が何日だったか、どんな空気でどんな天気だったか。
そんな事は疾うの昔に忘れてしまったが、その日に起きた出来事は小さい頃の自分の記憶、そして瞳へと貼り付いてしまっている。桜乃の父親は彼女が生まれてすぐに死んでしまった。まだ赤ん坊であった桜乃は泣き叫び、それと同様に彼女の母親もヒステリーを起こしながら泣き喚いた。桜乃より二つ上である俺は、彼女の母親の日に日に痩せこけていく頬の理由を理解できないまま眺めていた。桜乃が七つになった頃、彼女の母親は突然俺の家のチャイムを鳴らした。大きな鞄を両手に抱えて、どうしたのと尋ねる俺の目を見ずにごめんなさい一言そう謝って、足早にその場を立ち去っていったのだ。あまりに突然で呆然と立ち尽くしていたが、扉越しに揺らめく紺碧の空に嫌な予感でも感じ取ったのだろう。俺はサンダルを履くのも忘れて、彼女の家へと走った。彼女は玄関の石の床で手を擦りながら、いつものように大声をあげて泣いていた。出し続けられた声は歪んで、鼓膜の奥を引っ掻いた。俺が守るよ。そんな台詞、彼女には届かない。


彼女の部屋は三階だった。
静かに階段を登る。木で造られた扉を開いた。
視界に映るのは桜乃の眠るやたらと白いベッド。部屋中にばら撒かれるように置かれた大量の目覚まし時計。俺が部屋へ足を踏み入れるのと同時に鳴り始めた。耳を劈く。人の悲鳴のようだ。桜乃へと近付いた。十二歳。腕に刺された痛々しい点滴と、続かされている呼吸。いつまでも開かない瞳。桜乃、一言呼びかけても時計の音にかき消されて何も聞こえない。真後ろの棚に置かれた二つの目覚まし時計を叩き落した。壁にぶつかりながら拉げる。最後にリンと小さく音を立てて、中のバネが飛び出た。それを踏みつぶす。そんな騒ぎを起こしても一向に目覚める気配のない彼女は、今何を考えているのだろう。真っ白で痩せた頬はあの日の彼女の母親のようだ。結局彼女は母親を忘れる事が出来ない。俺では駄目だったのだ。もう一度名前を呼んで、俺は部屋を後にした。まだ時計は鳴り響く。やらなければいけないことがあるんだ。それが終わったらアラームを止めに来るから。そうしたらもう君は大丈夫だよ、長い夢を見ずに眠っていいんだ。鞄へ隠したリボルバーの五弾。俺は外へと走り出した。
Coma



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