帰宅途中、赤信号に引っかかった俺は、あいつが言った一言を思い出していた。
――「おれ、ヒーローになるから」
なんてバカげた言葉だろうか。だけど、あんな顔つきをして、あんなに意志を示すことができるんだ。そう思った瞬間だった。3年目にして初めてのそれに正直すこし怯んだことは黙っておく。
それでも、俺は教師として、担任として、この言葉を追求しないわけにはいかない。
進め、信号が変わって動き出す。
すべてはあした。俺も周りに置いて行かれないようにアクセルを踏む。
「小鳥遊、このあと職員室な」
HR直後、軽そうなスクールバッグを肩にかけたところを引き留める。
心底嫌そうな顔をしたのは見なかったことにしておこう。どうせお前だって何を言われるかわかっているんだろ?
思っていたよりも早く俺を呼ぶ声が職員室のドアを開けた。目が合うと、むすっとした顔のままこちらに来て「はい、これ」手にしていた日誌を差し出した。
きょうの日直こいつだったっけ? つい数十分まえの記憶を手繰り寄せる。
「颯太が早く持って行けって」
ああ、中尾か。さすがいつもつるんでいるだけのことはある。でかした、心の中で大いに褒める。
「お前さ、ちゃんと考えてそういうこと言ってんの?」
「漠然となら」
本当は、ちゃんと考えが固まっているだろう小鳥遊はなぜか口を濁す。どうして言わない。理解できないがためのいらいらが募る。
何年も前から面談用にと置きっぱなしになっているパイプ椅子を引きずってくる。
おいおい、何勝手に持ってきてんだよ、しかも座ってるし。じじいかてめーは。
くしゃくしゃと前髪を触る癖のあるこいつを眺める。ほんと何考えてるかわからねーやつ。
大丈夫だよ、タキ。
小さくて聞き取れなかったが口がそう動いているような気がした。
何が大丈夫、だ。学年主任や校長から脅しに近い視線を向けられている俺の身にもなってみろってんだ。
ギシ、錆びついた音とともに立ち上がる。
持ち出したときと同様に引きずって元の位置へと戻すと、
「ちゃんと結果出すから。そうしたらタキのこと、恩師って呼ぶことにするよ」
そう言って目を細めた。
二度目の初めてに怯みはしないが「お前、笑うんだな」これくらいは言ってもいいと思う。
うるさいな、言葉とは真逆の顔を一瞬見せて職員室を出て行く小鳥遊に息をつく。
――……
7年か。長かったような、短かったような。
俺はあの言葉、忘れてないからな。そして、開口一番に言ってやろう。お気に入りの曲をBGMに車を進め、心に決める。
華やかな空気に包まれた会場に着くや否や、すこしとびだした茶色に近い髪を見つけた。
「あ、タキ」
足を止めてその雰囲気を眺めていた俺に気付いたのか、大きめの声で反応する。
ゆっくりと、思い出を懐かしむように近づく。変わらずの長身をすこし見上げて一言、
「よくやった」
泣かせようと謀ってみる。
なのに小鳥遊は、あのときと同じつまらなさそうな顔で「ちゃんと結果出すって言ったでしょ」そう言うと遠くの誰かを探すようにあたりを見渡し始めた。
「ひなた」
そう呼ばれ、こちらに歩み寄ってくる女性は、向日葵のようなパーティ―ドレスに包まれている。
小鳥遊と同い年だろうか、招待状に書かれていた小さな情報を手繰り寄せる。
隣に引き寄せ、
「おれの恩師」
その女性に紹介する。
こみあげる感情を抑えて、本当に幸せそうな雰囲気を醸し出している2人を映す。なんとなくわかった気がした。
おれが言ったこと忘れてたの? わかっているくせにわざとらしく問いただす小鳥遊に温かさが頬を伝う。
7年越しに理解することができた教え子の夢。
結果を出すと言ったそいつは、今や俺がドライブするときには欠かせないものとなったBGMを創り出している。
バカげた言葉を、信じていた。といえばうそになる。だけど、あのとき黙って送りだしたことに意味があったと思った。
「ところでさ、なんでお前あのとき言わなかったんだよ」
「無言実行のほうがかっこいいから」
賢いくせに、バカげたことを言うやつだと未だに思う。
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