賢い傘の使い方
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我は汝が人狼なりや様への提出作品
その日はしとしとと滴るような雨が降っていた。
日本とは雨の多いことで有名な国であり、さらにその表現が非常に多いのも特筆すべき点だ。霧雨、篠突く雨、夕立ち……枚挙に暇がないこれらは、日本において雨がいかに意味を持つものであるかを示している。
雨が多いのはイギリスも同じだが、イギリスの空は女性の心のように気まぐれで移ろいやすいものである。その点、日本では降ると決めたら降るとでも言うかのような降り方をすることが多く、比較的素直な空模様と言えた。それがまたイギリス人女性と日本人女性の素直さの違いを体現しているようで、ノーベンバー11は日本の雨が嫌いではなかった。イギリスにはない傘を差すという習慣も、日本にいる間は好んで行っている。
そんなわけで彼が雨の中傘を差して歩いていると、不思議な光景が目に入った。通りの向こうに傘も差さず屋根の下に入ることもせず佇む少女がいたのだ。少女は雨の中じっと立ち竦むようにして虚空を見つめており、その場を動く気配はなかった。
いくら穏やかなものとはいえ、ずっと雨にあたっていては身体も冷える。いずれは体調を崩してしまうだろう。そう思った彼は進行方向を変え、渡る必要のない横断歩道を渡って少女の元へ歩み寄った。
「そのままでは風邪をひいてしまうよ、お嬢さん?」
そう声を掛けてから、彼は少女の黒い髪が全く濡れていないことに気付いた。よくよく見れば服も体に張り付くことなく乾いたままである。少女の方へと傘を差し出した己の肩口は早くも水が染みてきているにも関わらず、だ。
ノーベンバー11が驚きに目を見張っていると、少女が彼の方へ顔を向けた。茶色がかった瞳は何も映していないかのようで、彼は一瞬その少女のことをドールかと思った。しかし、受動霊媒と呼ばれる存在であるドールは決して物理的干渉を受けないわけではなく、傷も付けば雨にも濡れる。だから彼は日本について初めて雨が降ったとき仲間のドールに傘を買ってやったのだ。
誰かの能力による幻覚、あるいは彼女自身が契約者である可能性を考えながらも、一度差し出した傘を戻す気にはなれないでいると、少女がそっとそれを押し返した。
「いい、濡れちゃう」
そう言う少女は、先程よりも焦点の定まった目でノーベンバー11の濡れたスーツを見ていた。再び雨にさらされた少女はそれでもその身を濡らすことはない。
「君はどうするのかな?」
「私はいいの。……濡れないから」
緩く瞼を伏せて発せられた言葉の中に滲むものに、ノーベンバー11は口元だけで微笑んだ。
「……やはりこれは君に渡そう。私はまた別の傘を買うから」
瞬きの回数を増やした少女の手に傘の柄を握らせる。彼女の手のひらは氷床から漂う冷気のようにひんやりとしていた。
***「あ……」
「こんばんは」
「こんばんは」
その日はバケツをひっくり返したような雨だった。
前と同じ場所に佇む少女に近付けば、彼女はノーベンバー11のことを覚えていたらしく、呆気にとられた様子で口を開いた。
「流石に今日は傘を差した方がいいんじゃないかな」
あれからコンビニで購入したビニール傘の透明なこま越しに鈍色の空を見上げて言う。しかし少女は首を横に振った。
「濡れないもの」
「では、せめてこちらに来たまえ。屋根がある」
そう言うとノーベンバー11は少女の腕を取った。少女の腕は、相変わらず彼にとっては馴染み深い冷たさを保っている。雨に濡れた手のひらから流れる雫はどこにも留まることなくコンクリートの地面へと落ちた。
「この間渡した傘は?」
「……なくした」
彼のスーツの袖に出来てしまった染みを眺めながら少女は眉を下げる。誰かが持って行ってしまったのだろう、と当たりをつけながら自分の傘を畳んでいると、いつの間にか少女の視線が己の足元に縫い付けられていることに気が付いた。彼の足元、すなわちスーツの裾から覗く白い長靴に。
「ああ、これか。いいだろう? 合理的で。訳あって愛用しているんだ」
「…………」
彼の答えが意外だったのか、少女は長靴を凝視したまま目を丸く広げ、次いでふっと息を漏らした。それと同時に肩を竦め、口元へと手を持っていく。その端が上向いていることを視界に収め、ノーベンバー11も笑みを深めた。
「やっと笑ったね。やはり長靴はいい」
「変なの……」
「私は機能性を重視する性質でね。ここで何を?」
「何も」
「ここで何かをしているわけではないのか」
「うん」
「成程。……君とは雨の日にしか会えないのではと考えているんだが、私の推測は間違っているかな?」
「ううん」
「ふむ、君は知らないと思うが……私は雨とは大変相性がいいんだ。仲間に頼んでわざわざ降らしてもらったりもする」
言いながら、ノーベンバー11は畳んだ傘を再び広げて屋根の下から出た。ビニールを雨が叩いて跳ねる。
「こうして君と話すには多少勢いがよすぎるのが難点だがね……まあ、それも傘を差せば問題ない」
彼は少女の方を振り返ると、口元に不敵な笑みを浮かべて言った。
「どうかな、私達の相性はバッチリだと思わないか?」
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