その3
朝から降り続いていた雨が小さな粒になった頃、私は泣き腫らした目を隠すように傘を差して歩いていた。
昨日の、出来事を思い出して。バイト先に着くなりわんわん泣き出してしまった私の話を長い間延々と聞いてくれた店長。
話す間ずっと泣いていたせいか、パンパンに腫れてしまった目を気遣って今日はもう帰りなと言ってくれて。
『ナマエ、目ちゃんと冷やせよ』
『あい、すいませ…』
『総悟くんと、何があったか知らねーが…あの子がそう簡単にお前さんを嫌うとは俺ァ思えねーんだよなァ』
一回ちゃんと話して来いよ、と渡されたのはちゃんとしたケーキ屋さんの箱。慌てて店長を見れば、出世払いってやつでい、なんて言って笑うから。
『…ありがとう、店長』
今さら会い辛い、なんて言えずに店を後にした。
…本当は随分前からね、知ってたんだ。今日がアイツの誕生日だってこと。
だけど素直になれなくて、おめでとうが言えなかった。ちゃんと準備してたはずのプレゼントだって渡せないまま。
…私、怖かったんだ。気付いたら沖田の顔が目の前にあって。
次の瞬間、唇に強く押し付けられた熱に頭が真っ白になった。見たことない、男の顔したアイツが。私の、知らないアイツが怖くて。
だけど、反射的に叩いてしまった後にハッとした。ボロボロ涙を溢す私を顔を歪めて見ていた沖田が…めちゃくちゃ、傷付いた顔してたから。
『悪かった』
聞き逃してしまいそうな程、か細く紡がれた言葉に。…今更、胸が締め付けられるなんて。
トボトボと帰路を辿って歩きながら、ケーキの箱を持つ手を見下ろして吐いた溜め息。
どうしよう、これ。せっかく店長が用意してくれたものだけど私…沖田には、
そんな事を考えながらようやく目の前に現れた我が家に視線を移した時だった。
そこに見つけた人影に、足が、まるで地に縫い付けられたみたいに動かなくなって。
「…なんで、」
なんでアンタが、ここに?
信じられないものでも見ているような気分に陥った私の目の前まで歩いて来た男は、どこかバツの悪そうな顔をして頭を掻く。
…今一番会い辛かった相手、沖田総悟。
そんな私を見ている奴と、呆然と奴を見返していた私と。
しばらく見つめ合って気付いた、妙な雰囲気に。思い出したように自分から顔を逸らしてしまって後悔。…何やってんだ私。落ち着いて、まずはタイムマシーンを探しに行かなくちゃ。
脳内を回るある意味危険な指示に、ああ!違う!そうじゃなくて!と自分自身に突っ込んでいたらすぐ近くで呼ばれた名前。その声に慌てて顔を上げれば、雨に濡れた沖田の手が目に触れて。
「…こりゃ酷ェや。どうやったらこんな顔になるんで?」
「う、うるさいな!元々酷い顔ですよ私は!」
「よく分かってるじゃねーか、雌豚にしちゃ」
「雌豚にしちゃって何!」
いつもと変わらない、酷い言われように私も同じように言い返す。本来ならここで、雌豚は雌豚でィ。なんて返ってくるのに今日は待てどもそんな言葉は返ってこない。
その変わりなのかどうなのか、さっきからずっと私の瞼を優しく撫ぜる沖田の手。
濡れてるせいか冷たいそれが凄く気持ち良いんだけど…ど、どうしちゃったの沖田。こんな事するような奴じゃないよね?
「あの、どうしたの?」
されるがままの状態で、そう話しかけてみても返事は返ってこない。
何故か無言で撫ぜられ続ける事にいよいよ耐えられなくなってきて、ちょっと、お、沖田?とその手に自分の手を重ねた瞬間。
ケーキの箱を持っていた腕ごとグイッと引かれて、その広い胸の中にダイブする。
「…ちょ、え、何?」
「…なんでィ」
「いや、なんでィじゃなくて」
どうしたの?そう掛けた声に返ってきたのは、別に?と。いつもと何ら変わらない沖田の声。
だけど背中に回るその腕が離れる気配は全くない。何とかして顔を上げようと腕の中で身動ぎすればもっと強く抱き締められて。
「お、おき…ちょ、苦しい」
「ナマエ」
「え、?」
「…一回しか言わねェ、心して聞けよ」
顔も見えない、心も読めない。そんな状態で耳元に寄せられた沖田の口から飛び出したのは。
「お前の事が好きでさァ」
信じられない一言だった。
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