名前といえば?
という質問を学園中にしたとしましょう。 そうしたら、ほぼ十中八九九分九厘の確率で、
『鉢屋三郎のことが大好きな人』
『妙な発明をするのが趣味で、原理は不明』
『いつもへらへらと笑っている人』
という答えが返ってくるでしょう。
しかしながら、名前も生まれたときからそうだというわけではありませんでした。
元々忍者の家計にあった、鉢屋家。 その隣にあった、ごく普通の家に生まれた子でした。
歳も同じで、家が隣同士ということもあり、 小さいころはよく 『隣の名前君と遊んでおいで』と言われることの多かった三郎は少しだけ面倒だと思いながらもほぼ毎日隣の家に遊びに行っていました。
「名前、なにしてるんだ?」
「……ああ、こんにちは三郎君。 今日も遊びに来たのかな?」
名前は大抵家にはおらず、裏の森の中にある町を見渡せる崖になっているような場所の、大きな岩の上に座っていました。
短い足をぶらぶらさせながら、いつもぼんやりと町並みを眺めているのです。
まったく表情がないその顔は、三郎を見たときだけほんの少し口元を緩める程度でそれ以外の顔は見たことがありません。
名前の言うことはいつも難しくて、三郎には理解できないことだらけでしたが、他に遊ぶ相手もいなかった三郎はあまり楽しくないと思いながらもそれでも毎日名前の所へと足を運んでいました。
「…町をみているのか?」
「ただなんとなく、ぼんやりしているだけだよ」
「………楽しいか?」
「楽しくはないさ。 でも、俺はそれをしなければならないんだ」
「なんで?したくなければしなきゃいい」
「したくなくても、しなくてはならないから、俺は毎日こうしているんだよ」
こたえる気があるのか、ないのか。 少なくとも子供に向ける言葉ではないし、 子供が言うべき言葉でもないのは確かですが それを指摘してくれるような人物はこの場にはいません。
三郎はよくわからないけれどそういうものなのだろう、と自分を納得させて名前の横に座って一緒に町を眺めます。
毎日見たところで何か真新しい変化があるわけでもなく、せいぜい変わるものといえば天気か干してある洗濯物の量が多いか少ないか程度の差くらいしかありません。
何故これを見なければならないのか。
黙ったまま、ちらりと横を見れば"名前が本当に瞬きをしているのかすら疑問に思うほどじっと町を眺めています。
三郎はそのときの名前の顔が嫌いでした。
目の焦点は合わず、顔は無表情で、身じろぎもしません。 そのうち、ふとした瞬間に死んでしまうのではないだろうか、なんてそんな不安がこみ上げてくることもよくありました。
「…名前は、近くにいるのに凄く遠くにいる」
「………」
「遠くにいて、町を見ている筈なのに、何も見てないんだ」
きっと返事は返ってこないと思って言った言葉でした。 名前は三郎を鬱陶しがりはしませんが、他の町の子供達のように遊ぶということもありません。 なので、いつもこうして一人三郎が何かを話しかけるだけなのです。
しかし、何気なしに言った言葉なのに名前は目を見開いて三郎を見つめたまま動きません。
少し驚いたけれど、名前のぼんやりとした光のない目に 自分の姿がうつっている、その事実がとても嬉しかったのです。
「…三郎」
「…うん」
「三郎、俺は、この景色を覚えなきゃいけないんだ」
「………うん」
「この景色を、『普通だ』って思えなくちゃいけないんだ」
「…名前?」
「電柱はなくて、ビルもなくて、建物もみんな木でできていて車はもちろん通ってないし服だってみんな着物で、街中なのに活気はあっても五月蝿くなくて。 夜になったら虫の声しか聞こえなくなって、そして、電気もないから町は真っ暗で自分すら見えなくなるんだ」
「…名前、何を言っているの?」
「何故俺がこうなっているのか、わからない。 わからないけど、俺は生きているから、ここで生きなきゃいけないからだからこれが普通だって、当たり前だって感じられるようになるまで俺は頭に叩き込まなきゃいけないんだ」
名前はそうして、自分の手をじっと眺めます。 何度か開いたり閉じたりして、わずかに眉を寄せました。 三郎の手と同じくらいの大きさの手は、 どうしてでしょう、三郎には名前に不釣合いな気がしてなりません。
「名前、名前。 悲しいの?それとも寂しいの?」
「悲しくはないし、寂しくもないさ三郎。 ただ俺は毎朝起きるたびについ『もしかしたら』を考えてしまうから、だから、そんな女々しい感情を切り離したいだけだ」
「…ねえ、名前聞いて? 私にはよくわからないけれど、名前が何を言いたいのかもわからないんだけど。 朝起きて、悲しい気分になるのなら私が明日から名前を起こしに行くよ」
「…三郎?」
「そうしたら、一人でここに来ないで一緒に来よう? そうしたらいくらでも町を眺めたらいい。 でも、どれだけ名前が遠くを見ていても、これだけ近くに私がいる。 名前のいう『もしかして』がこなくても、私はここにいるよ。 私がいることが、当たり前だって思えるまでずっといるよ」
三郎は、だんだん何が言いたいのかわからなくなってきました。 それでも、『どこにも行かないで』ということは伝えられたと思います。 恐る恐る、岩の上におかれているその手に触れれば びくりとおびえたように体を震わせたけれど、 それでもその手は振り払われませんでした。 想像していたよりもあたたかい名前の手に、三郎はぎゅっと力を込めます。
名前は、まっすぐの三郎を見ました。
自分と同じ、小さな手です。 もう自分の手はごつごつとしてそれなりに大きな手ではありません。 そのことにずっと、それこそ生まれたときから嘆いていた名前は、 この少年と、三郎と、同じ大きさの手ならばそれでいいと思いました。
小さくなってしまった身長は不便以外のなにものでもありませんが、 三郎と同じ目線でものを見ることができるのならばそう悪いものではないと思えました。
きっと、優しくないこの世界も 三郎がいるのならば素晴らしい世界だと思える日がくるのでしょうか。 名前は初めて、笑いました。
「…三郎君。 ……違うな、子供らしくない。ええと、」
「名前?」
「…よし、さぶろー君。このくらいかな」
「なに?」
呼ばれた名前は、はきはきとした大人のものではなくて 自分が喋るものと似たような口調でした。 不思議そうに首を傾げる三郎に、名前は満面の笑みを向けます。
「さぶろー君。 俺さぶろー君が隣にいてくれるなら、なんでもするよ。 大好き、愛してる、えーとうまく言葉に出来なくてもどかしいな」
「ええ!? わ、私も!私も○好きだよ!!いっとう好き!! ていうか、わら、笑った…!!」
「よーし、一緒に遊ぼうがさぶろー君!」
それから、名前はぱったりと難しい話をしなくなりました。 はじめはぎこちなかった笑顔も、 三郎を見ればにこにこと顔を緩ませるのです。
ずっとずっと昔のことでした。
「…おいこら起きろ名前、約束取り付けといて寝坊とは良い度胸だ」
「ふごっ、痛い、さぶろー君痛いよ! 朝は優しくキスで目覚めさせてって俺いつも言ってるのに!」
「誰がするか馬鹿。 おら、さっさと起きて着替えろ」
「うぇーい。 …やだ、さぶろー君ったら俺の着替え見る気? このえっちすけっちわんたっちー、やかんにさわってあっちっちー」
「今イラッとした、名前にはもう膝枕しない」
「ぎゃああああ酷すぎる!! さぶろー君は俺を殺す気だ!そんなのもう生きていけない…!!」
「いやだったらさっさと着替えろ、街に誘ったのお前だろうが」
「うんわかった光の速さで着替える」
ばたばたと豪快に夜着を脱ぎ捨てている名前を三郎は眺めた。
あれから、さり気なくそのときのことを聞いてみれば きれいさっぱり忘れてしまったらしかった。
残ったのは『さぶろー君が好きすぎて困る。なんで?』と 真顔で言ってのける名前だけだった。
今でもたまに、あのときの名前はなんだったんだろうと考えることがある。
時々自分の知らない言葉が名前の口から出てくるときに、 そのときのことを思い出すけれど、
「さぶろー君できた!!」
「髪くらいしっかり結え!斉藤さんに追い掛け回されるぞ」
「なんてこった! さぶろー君が思わず惚れ直して『格好良い!今すぐ私をめちゃくちゃにしてくれ!!』って言っちゃうような髪に仕上げるからもうちょい待っててー!」
「アホか」
…まあ、私は名前が好きで、名前も私が好きで、それは変わらないだろうしずっと一緒にいることも約束してるし。
それ以上に大事なことってないだろう。
もう、それでいいんじゃないか?
「出来たか?ほら行くぞ。手、出せ」
「あっれ?珍しいなぁさぶろー君からなんて」
「嫌か?」
「うんにゃ、年頃の乙女みたくきゅんとした」
「きもい」
「ひどい!でもそんなさぶろー君も好きです!」
「…知ってる」
|