六年い組の潮江文次郎は鍛錬中に鬼になる。
ある種学園の七不思議とも言えなくもないその噂は、けれど眉唾物の情報ではなく一年は組からの証言に基づく事実だった。
それをとある六年生の一人が、 やれ『あれが完全形態だ』だの やれ『あれは文次郎の本気モードだ!』だの やれ『むしろあっちが本体で文次郎はおまけ』だの。
好き勝手面白おかしく話を広げたその六年生のせいで、七十五日程度で消えるかもしれなかったその噂は学園の七不思議の仲間入りかとまで言われるまでに成長してしまった。
なにも本当に鬼になるわけではなく、単に潮江が鍛錬中に集中したいときや気分がのってくると苦無を二本鉢巻で頭に巻くという行動をとっていたという話であった。
もはや、学園内の誰しもが知っているだろうその噂をとある少年は一体どう思っているのか。
噂に愉快犯的に尾びれ背びれをつけた犯人は、しれっとした顔で少年へと質問を投げかけた。
「会計委員会二年生の苗字名前」
「はい?ああ、立花先輩今日は」
振り返り、少しだけ意外そうな顔をしたもののぺこりと礼儀正しく挨拶をする名前に仙蔵は満足そうに笑った。
今から委員会に向かうらしい名前の手には、先日なんちゃって10キロ算盤だと衝撃のカミングアウトをした算盤が抱えられている。 木材で出来ているからたいした重さは無いものの、ずり落ちそうな算盤を抱えなおしている姿を見るとなんだか重そうに見えるから不思議だ。
「何の御用ですか? 予算だったら委員長を通して下さいね、私には何の権限も無いので」
「名前、お前はあの噂を知っているか?」
「噂、ですか?」
自分が仙蔵に話しかけられるということは、つまり予算のことだろうと単純に解釈した名前の思考に会計委員会の片鱗を垣間見た気がした。 いや、もしかしたら以前から予算について声をかけられることが多いのかもしれない。 標準よりも背が低く、どこかひょろりとした印象のある名前を見てそう思う。
「お前の所の委員長が、鍛錬中に鬼になるという噂だ」
「…潮江先輩がですか?」
「ああ。一年は組のやつらが見たらしい。 鍛錬中に額に苦無を二本まきつけて走り回っているとな」
噂を聞いて、実際にそれを見に行ったときには指をさして爆笑したものだ。 それ以来滅多にそのスタイルはしなくなったけれど、だからといってその時の衝撃が無かったことになるわけではない。 個人的には是非ともそのままの格好で鍛錬や委員会をして欲しい。 そして潤いの無いこの学園生活にひと時でも良いから笑いを提供すればいいと思っている。 ちょっと間違えれば丑の刻参りになりかねない所が下級生には恐怖を与えるだろう。
仙蔵の話に、ぽかんとした顔で何かを考えているらしい名前。
果たしてこの少年は笑い飛ばすのか、それとも怯えるのか。 ああ、文次郎に懐いているようだったからもしかしたら怒るかもしれない。
どう転んでも同室の友人である文次郎に言うつもりであったし、どうなっても結果的に笑うのは自分だという確信があった。
だからこそ、名前の言葉が予想外すぎて仙蔵は一瞬思考が停止した。
「…ああ!あのウサギみたいな格好のことですね!」
ぽん、と両手を合わせて笑いながら言った名前。 思わず算盤を落としそうになって、慌てて抱えなおしている。
今度は仙蔵が首を傾げる番だった。
ウサギ? 今ウサギって言ったかこいつ。 鬼でも変質者でも妖怪でもなくか? いや、それとも妖怪の一種にそんな名前のものがいたか?
どう考えても、一般的な耳が長くてふさふさした毛が可愛らしいあの小動物とは結びつかない。
文次郎とウサギ、で関連付けられる両者の関係性といえば野宿中のご飯としか思い浮かばない。
戸惑う仙蔵に気がついているのかいないのか、更に名前は続ける。
「潮江先輩は徹夜される事が多いから、たまに目を赤くされているじゃないですか。 あの苦無が丁度耳のように見えるし、凄い勢いで飛び跳ねる様なんてそっくりじゃないですか」
「………名前」
「はい?」
無邪気に首を傾げる名前。 名前の言うことがどうしても想像できない仙蔵は、まさか己の想像力が乏しいのだろうかとあまりにも自信満々に言い切った名前の態度にそんな錯覚に陥った。
他に誰かいたのならば、即座に仙蔵に共感したり名前に突っ込んだりしただろう。
真夜中に、苦無を二本頭に巻きつけ、ぎらぎらとした目に万年寝不足であるがためにくっきりと目の下に刻まれた隈、木から木へ、屋根から屋根へと飛び回りながら『ぎんぎーん!』などと叫ぶその姿。
あれがそう見えるというのならば、名前の目にはおそらくなにか特別なフィルターがかけられているのだろう。
以前伊作が『もしかしたら名前君は視覚か脳に何か重大な病気を抱えているかもしれない』と漏らしていた言葉を今思い出す。 素直に体の弱い少年なのか、とそのときは思ったけれどこういうことか。
「…おい仙蔵!お前うちの後輩に何してやがる」
「あ、潮江先輩」
気配を感じたのでわかっていたけれど、仙蔵と名前が話している姿を見て驚くほどの速さで間に割り込んで名前をその背に庇うように隠した文次郎は、きちんと先輩の顔をしていた。
突然現れた文次郎に一瞬体を震わせた名前だったが、すぐにそれが文次郎だとわかると途端ににこにこと嬉しそうな笑顔になった。
「すみません、遅刻してしまってますか?」
「ああ、もう皆集まってる。 まあなんで遅れてるかは今見て理解した」
「立花先輩とお話してたんです」
「話?こいつとか?」
訝しげな顔で、仙蔵を見る文次郎。 即座に矢羽音がとんできて、
『お前、予算のことでこいつに絡んでたんじゃねえだろうなぁ? 文句があるならこいつじゃなくて俺の所に直接来い仙蔵』
と、やや苛立った様子で牽制してくるその姿に仙蔵はなんともいえない気分になった。
お前が今庇ってる後ろの後輩、お前のことさっき愛くるしい小動物に例えてたんだが。
そう言いたかったけれど、真剣に睨みつけてくる文次郎の姿に仙蔵はもはや何も言えなくなった。
文次郎がその事実に気づくのはいつになるだろうか?
考えてみれば、今名前の発言を言うよりもそのままそっとしておく方が長く楽しめるかもしれない。
そう結論を出した仙蔵は、とりあえず名前の発言は自分の胸のうちに秘めておくことに決めた。
いずれ数年後、そのことを知り打ちひしがれる友人に追い討ちをかけるかのようにそっと教えてやることにしようそうしよう。
名前も十分に不思議な存在だと、同じく矢羽音で友人を諌めながら思った。
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