可愛い人 | ナノ




会計委員会の部屋をあけたら、




「あー…しーおーえーせんぱー…い」




後輩が溶けていた。

今日は蒸し暑い日だった。
そろそろ本格的な夏の到来に、汗で張り付く服が気持ち悪くて丁度腕まくりをしながら部屋に入ったところだった。

ぐったりと、畳の上に転がる後輩。
右手にはまだ墨を浸す前の筆が、左手にはつい先日衝撃のカミングアウトを果たした
10キロ算盤の外見をしている普通の算盤が。

傍らにわずかに湿気でしっとりしている帳簿がなんともいえない雰囲気をかもし出している。


殺人現場…か…?


名前の右手に犯人の名前のダイイングメッセージが見えた気がした。

いや、そうではなく。




「大丈夫か、名前」

「だいじょーぶーでーすー…」




元気元気ー。
と言いながら腕をぶんぶんと振り回してみせる。

名前、腕が全然上がってないうえにまったく大丈夫そうに見えないし聞こえない。

とりあえず、抱き起こしてみれば名前の体温が普段よりも熱いことに眉をしかめる。
高熱というほどではないが、名前の様子を見る限り安心はできない。
体力がなくて力尽きた、というのはよくあることだ。
しかし、それ以外でこうなっている所ははじめてみる。
ぐったりしている名前に思わず、




「熱があるなら長屋で寝てろ!」




その前に保健室、今日の当番は確か伊作だったはず。
名前を片手に抱き上げるのもなれたものだ。
抱き上げられている名前も緊張した様子も驚いた様子もなくそれを自然と受け入れている。
名前は中々の大物だ、と語ったのは会計委員会4年生。
今の所異論は出ていない。




「熱なんてないですよ、ただちょっと熱いだけです」

「それを一般的には発熱と呼ぶんだ!」

「えー」




普段ならば、馬鹿たれ!と拳骨でもしてやりたい所だが相手は病人でしかも名前だ。
きっと本人は気にしないだろうが、そんなことをしようものなら七日は保健室に入院しそうな気がする。

そこまでではないだろうが、笑って済ませられないのも確かなのだ。

早足で保健室に向かう俺を、名前はぺしぺしと名前をつかんでいる手をたたきながら何かを主張している。




「あのですね、潮江先輩」

「いいから黙ってろ」

「私、暑い時に体が熱くなって、寒いときに冷たくなるんですよ」

「普通そういうものだろうが」

「左近から、変温動物か、って言われました」

「………は?」





丁度、保健室をあけた時の会話だった。
言われた言葉を問い返す前に、保健室に待機していた伊作に一目見ただけでおおよその状況を理解したのか慌てて走ってきた。










「………なんというか、文次郎」

「…………」




一応、濡れた手拭いを額に乗せている名前を見ながら、半眼で伊作が俺を見ている。
その目はやめろ。




「文次郎は、名前に対して凄く甘いよね」

「…いや、」

「本人も言ってるけど、まあ、確かに熱かったけどさ。
熱って程じゃあないんじゃない?」




何故か正座で向かい合わせに座らされながら、こんこんと説教されている。
留三郎と喧嘩して保健室に来る時だって、ここまで気まずい思いはしなかったはずなんだが。

俯きながらちらりと名前を見れば、ふと目が合い、こちらににじり寄ってきて隣にちょんと座った。




「私は大丈夫ですよ、潮江先輩」




片手で濡れた手拭いを支えながら、覗き込むようにして言う。




「確かに、貧弱だし軟弱だという自覚はありますが、
病弱ではないんですよ」




物凄く紛らわしい格好で力尽きてしまっていたので、誤解させて申し訳ないとは思っているんですが。
困ったように眉を下げる名前。
さっきまで説教していた伊作は、黙って俺と名前を見ている。




「でも、心配してくださってありがとうございます」




そういってにっこりと嬉しそうに名前が笑うのでなんと文句を言ってやろうかと考えていたことが全て消えうせてしまった。

結局、こうして懐いてくれる名前を可愛く思っているのだ。
正面からの伊作の微笑ましげな視線に苛立ち眉間に皺が増えて遠巻きにこちらの様子を伺っていた保健委員の一年生がびくっと体を震わせるのが見えた。

それでも気にせず笑っているこいつは、ある意味本当に凄いと思う。




「……鍛錬が足りんぞ、馬鹿たれが」

「はい、これからもご指導よろしくお願いします」




ごまかすように乱暴に頭をわしわしとなでれば、
そのまま頭を小さく下げた。




「本当に、かわいらしいお人だなあ…」




暫くしてぽつりとそうつぶやいた名前に、ああこれ駄目だやっぱり熱があるよ文次郎。
と言いながら伊作が強引に入院をすすめるのはもう少しだけ後の話。











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