「名前先輩って、怒るとすっごく怖いらしいぞ」
至極真面目な顔で、そう言ったのが三郎でなければ少し考えていただろう。
こっそりと、口元に手をあてながら、何故か円陣を組むようにしてひそひそと話し始めた三郎に俺は内心『またか』とため息をついた。
三郎は時々、こうしてうそをついては楽しむところがある。 たまに、本当にごくたまに本当を混ぜて話すので油断ならないけれど、今回ばかりは断言できる。うそだ。
「三郎、名前先輩ってあの名前先輩?」
「うちの学園で名前って名前なのはあの人だけだぞ、雷蔵!」
何故か胸をはって、雷蔵に向き合っている三郎。 名前先輩。 ……名前先輩、ねえ。
話題にのぼった、名前先輩とは実はかなり関わりが深い。 なにせ、我が火薬委員会の委員長だから。
名前先輩は個性の強い六年生の中でも、珍しい常識人だ。 よくまわりを巻き込んで騒動を起こす同級生たちを制止し、下級生に対しては物腰柔らかく親切に対応してくれる先輩。
いつも少し困った顔をしているけれど、本当に困っているわけではなくもともとそういう顔なのだと、昔思い切って聞いたときに名前先輩は笑って答えてくれた。
その笑顔も、本当に笑っているのか、ただ苦笑しているのかわからなかったけれど。
何だかんだで、名前先輩も6年火薬委員。 そして俺もずっと火薬委員だ。
はじめはなんとなくだったり、くじ引きでそうなったりだったけれど三年生になる辺りからは自ら立候補してなった。
色々と迷惑をかけたこともあったし、困らせたことも少なくない。 けれど、俺は名前先輩が怒る姿なんてものは見たことがない。 あえていうのならば、名前先輩が怒ると言われて思い浮かべられるのは困ったような顔をもっと困ったような顔にさせて、切々と説き伏せるようにして言い聞かせる。
彼にとっての『怒る』はそれに相当するんじゃないだろうか。
きっと先輩の中では一番一緒にいるだろう。 尊敬もしているし、慕ってもいる。 だからこそ俺は名前先輩が誰かを静かに叱るように、じっと三郎の目を見ながら
「名前先輩はいつだって優しい。 怒った時だって優しかった。 三郎、あんまり根拠のないことを言うと俺が怒るぞ」
遠くのほうで、六年生の友人達と何かを話している名前先輩の声。 何を話しているかはわからないけれど、ああ、今日も先輩の声が聞けた、と俺は目を細めて聞き入った。
「留三郎、文次郎?」
あーあー…だから言ったのに本当に馬鹿だなぁ。
やわらかい声で名前を呼ばれた二人は、ぴしり、と音を立てて動きを止めた。 やや距離をとりつつ、僕は名前を横目で見た。 相変わらず、若干眉をハの字にさせながら困ったように二人をじっと眺めている。
「ねえ、私何度も注意したよね?ちゃんと聞いてた?聞いてなかった?聞こえなかった?聞きたくなかった?」
「い…いや、名前…違うんだ」
「もっとよく聞こえるように、鉄の棒でも突っ込んで耳の穴を大きくしてあげようか?それとも、私の話をさえぎるその口を針と糸で縫ってしまうのが先?」
留三郎は、何色が良い?
言いながら懐から裁縫セットを取り出して色とりどりの糸を並べようとする名前に留三郎は勢いよく頭を下げた。
綺麗な直角だった。
選択肢を与える場所が違う。 そう思ったけれど、口には出さない。 出したところで別にこっちにまで被害は及ばないけれど、きっと、二人にとってはいい薬になるだろうから黙っていることにした。
実際、名前に怒られると二人は暫くの間面白いくらい喧嘩をしなくなる。
…まあ時間がたてばまた忘れて同じ事をくりかえすわけだけど。
「文次郎もね、徹夜も良くないけど鍛錬を後輩に強要させるのはどうかなあ?」
「だが、忍者たるもの一に鍛錬二に鍛錬!!」
「うん。でも、委員会でへろへろになっているときにやらなくてもいいよね?」
「しかし、どんな状況にも対応できるのが忍者で」
「文次郎?」
名前は少し首をかしげて、文次郎の顔を覗き込んだ。 じいっと目をそらさない名前に、若干文次郎がたじろいでいる。 ぐっと口を閉じたのを確認してから、 名前は言い含めるようにして柔らかな声で続けた。
「だったら、下級生の体力もちゃんと頭に入ってる?入ってないよね?入ってたらあんなふうに倒れて保健室に運び込まれて魘されて3日間も目を覚まさないなんて事にならないものね?」
「ぐ…」
「それに、過度な徹夜や鍛錬のせいで実習中もし下級生たちに何かが起きて、取り返しのつかないことになってしまったら文次郎は親御さんたちにどうやって謝るつもり?」
「……」
「仕方のないことだった、と言い捨てる?それとも土下座でもして誠意とやらを見せてみる? もし、そんなことになったとしたら誰が許しても私は許さないよ? つまらない言い訳で切り捨てるのならば、その前に私がそんな同級生を今まで戒められなかった償いとして自ら私が文次郎を切り捨ててあげる。もし、土下座なんてしようものなら、」
そこで言葉をきる。 文次郎はやや顔を青くして、先ほどから瞬きもできず、目をそらすことも許されず、ただただ、じっと名前を見つめ返して話に聞き入ることだけを許させている。
拘束されているわけでもなければ、名前に恐れおののくほどの強靭さも備わってはいない。
それこそ、適当に切り上げてこの場を立ち去る事だって可能だが、けれどそんなことをしようものならこの男。
「その頭を踏みつけて、頭蓋骨を踏み抜いて、やがて土にかえるまで土下座させてあげるからそのつもりでいて」
声色も、表情も何一つかえることなくただただ淡々と本を読み上げるように言い切った名前に底知れぬ恐ろしさを感じる。
そして、悟るのだ。
ああ、この男は言ったからには必ずやってのけるのだと。
たしかに基本的には、優しい。 親切だし困っていれば手をかしてくれる。 情にも厚ければ後輩も大切にしている。
しかし、怒らないわけではない。
恐ろしく気が長く、全てを少しずつ溜め込み、そしてこうやって何かの時に溜め込んでいた怒りをどろどろと吐き出す。 かっと火山の噴火のように怒る、というよりは噴火の後の溶岩のように静かにじわじわと確実に追い詰めていく。
…注意をされている段階で改めていればこんな風に怒られることもなかっただろうに。
後輩たちが名前のこんな面を見たら、どういう反応をするだろう、とたまに思うけれどそもそも言って聞くような相手ならば名前はこんな風に怒ることはない。
まあ、つまり。
「…きっとこの先も知らずに生きていくんだろうなぁ」
ほんのちょっとだけ、自分も知りたくなかった。 そう思いながらも未だ保健室で倒れている会計委員達の様子を見るために保健室へと戻ることにした。
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