クーラーもない不便な世界で、涼を感じられる唯一の瞬間が目を閉じて、耳を澄ます時だ。じわりじわりと灼ける音のずっと奥に聞こえる水の音。川の音を辿っていけば、海の音も聞こえる。元の世界から比べたら不便で不便で仕方ないけれど、こういう美しいものだけは嫌いになれない。
今日もそうして目を閉じていたのだが、不意に扉が開いた。滅多に開くことがないから、驚きで少し体が強張ったのは、きっとばれていないはずだ。扉の方へ目を向けると、そこには王様がいた。まあ、考えなくってもこの人かジャーファルさんしかわたしの部屋には来ないのだけど。
「元気にしてたか?」
「変わりないですよ、王様」
「ハハハ、王様はやめてくれよ。…シンドバットでいいって言ってるだろ?」
王様はニコニコとした顔で近づいてきた。どこに王を呼び捨てる平民がいるのか、ぜひ聞いてみたい。たとえ私がこの国の人間でないとしても、なおさら王様を軽々しく呼べるはずないじゃないか。馬鹿だなぁ王様は。どんだけ威圧されたって、私はあなたの名前なんて呼ぶつもりはないのに。
「なまえ」
私の髪に指を通しながら、王様は痛いくらいにひとみを合わせた。曇りも、迷いもないまっすぐなひとみだったけれど、どこか恐ろしかった。蛇に睨まれるとはこのことか。王様のどこかに潜んでる蛇が、するりと頭角を表しているようだ。王様は続けて、何かほしいものはあるか、と聞いた。私がほしいものなんて分かっているくせに、底意地の悪い王だ。
「外に、出たい、帰りたい」
「なまえ」
「いつまで、ここにいればいいの?」
「なまえ、君は宝石のように美しいよ」
「ねえ、王様、ねえ!」
「美しい、私のなまえ。私だけのものだ。どこへも逃がさない」
もし、私が王様の孤独を救えるような人間だったなら、きっとハッピーエンドも迎えることができたのかもしれない。でも私は彼を救えない。彼のそばが、こんなにも辛くて苦しい。逃げたくて、それでも逃げれなくて目を閉じて耳を澄ましたが、聞こえてくるのは雑音ばかりだった。
或る夏日の戯れ事/140325