存在の証
「ない……」
シャチは焦っていた。
今朝起きてから、何処をどう探したって財布が見つからないのだ。
昨夜ペンギンに泣きついて、その後宿に放り込まれた記憶はある。
しかし宿の自分の部屋に財布はなくて、そう確かペンギンと酒場を出た時に支払いをしたからその時はまだ持っていたはずだ。
そうなると落とした場所の心当たりは一つしかない。
「あの時落とした、かな……」
かなり酔っていたのに、昨夜の記憶は鮮明だった。いっそのこと曖昧にぼやけていれば、酔って幻を見たのだろうと自分を納得させられるのに。シャチはあの白いワンピースと、ふわふわ揺れる黒髪、そしてブラウンの瞳ですらバッチリと覚えていた。
「外明るいし……大丈夫だよな?」
カーテンを勢いよく開ければ、外はこれ以上無いくらいの快晴だった。
シャチは少し気が重そうに身支度をすると、宿を後にした。
***
「この前の遺体、ララだって」
「お客に殺されたって話だよ」
「娼婦なんて海に捨てられるんだろうね」
朝の酒場街は夜と違って静かだ。
時折すれ違う女性は仕事明けで何処か気だるそうで、ウエスタンドアの向こうの暗がりからは穏やかではない噂話が聞こえる。
シャチは足早に目的の酒場に向かい、辺りを見回した。自分の財布が転がっている様子は無く、昨夜の行動を辿る様に袋小路の方へと歩いていく。
鳥の囀りと朝日を背にして見る袋小路はひんやりと冷たく、そして暗い。
何故かドキドキと鳴る心臓を落ち着かせようと深呼吸し、目を閉じる。
大丈夫、まだ明るいし、何もいるわけがない。第一幽霊なんて非科学的なものがいるわけがない。
何度も自分に良い聞かせ、やっとシャチは瞼を持ち上げた。
「……」
「☆#$&%?!?!」
「やっぱり昨日の人ですね」
ぱっと明るい笑顔が目に飛び込んできたと思うと、シャチは思わず絶叫した。
「また出たぁぁぁー!!!!」
「きゃぁっ!」
シャチの声に目の前の幽霊(多分)も驚いたのか声を上げる。
見た。
見てしまった。
やっぱり幽霊(多分)だった…!
シャチは最早財布どころではなくて、一目散にその場から逃げようと身体を捻った。しかしその刹那腰に奇妙な違和感が走る。それの正体が分かる前に、上半身の勢いのままに身体は傾き、ベシャリと地面に叩きつけられてしまった。
慌てて立ち上がろうとするも、シャチの下半身は思うように動いてくれなかった。
「くっそ……、腰抜けたぁ!」
情け無さすぎる醜態だが今はそれさえもどうでもいい状況のシャチは、ほふく前進でちょっとでも進もうとするが、それを制したのは予想外にも女性の声だった。
「あの……大丈夫ですか?」
「わっ!まだいる!」
「そりゃいますよ、私ここから動けないんですから」
「何でいるんだよ、朝だぞ朝!」
「あんまり朝とか夜とか関係無いみたいで……」
両手で頭をすっぽりと抱えているシャチには彼女の姿は見えず、何だかやけに普通に行われている会話にハテナマークが浮かんできた。
これはもしや彼女はれっきとした人間で、一方的に自分が勘違いしているだけなんじゃないだろうかという淡い期待まで出てきて、シャチは恐る恐る顔をあげた。
「?」
首を傾げる彼女は、やっぱり宙にふよふよ浮いていて、普通なら両足がすらりと伸びているはずの場所は……うっすらと向こう側が透けていた。
「だー!やっぱり浮いてんじゃん!透けてんじゃん!!幽霊じゃん!!!」
「す、すいません……」
やけに人間臭く申し訳なさそうに頭を垂れた幽霊は、ふわりと浮かび上がりシャチの視界から消えた。
しばらくして何とか足に力が戻り始めたシャチは、ずるずると移動して壁にもたれ掛かった。幽霊はいなくなっていて、やっとここに来た目的を思い出して辺りを見回す。
すると、はたと木箱の影に転がっている物体に目を止めた。それはよく見なくても自分の財布だった。
手を伸ばしそれを手に取ると、財布が踏みつけていたのか、ネックレスの様なものも一緒に取り上げてしまった。
「?」
ネックレスの先には桜色の珊瑚を型どった小さいカメオがついていた。
シャチも海賊をしていて様々な装飾品を見てきたが、これだけ小さなサイズに細工をしているものは珍しくて、しかも材質はピンクコーラル。希少な珊瑚だ。
どうしてこんな高価そうなものが落ちているのかと思って、くるりとカメオを回すと、そこには小さく文字が彫られていた。
" LALA"
「……」
その響きには、聞き覚えがあった。
それはついさっき、ウェスタンドアの向こうで噂話に上がっていた娼婦の名前だった。
--この前の遺体、ララだって
--お客に殺されたって話だよ
--娼婦なんて海に捨てられるんだろうね
「あの……」
「!」
またあの声がシャチを呼んだ。
ハッとした時には目の前には既にあの幽霊が佇んでいて、おずおずとシャチを見つめていた。
「ま、またっ」
「あの!驚かせてしまってすみません……ただ、その、それを返してほしくて……」
「へ……」
幽霊が指差したのはシャチの財布……ではなく、ピンクコーラルのカメオだった。
「返す……って、これ持てんの?」
「いや、多分触れないのでその辺にでも置いといてもらえたら……。よ、良かったら海にでも投げて貰える方が嬉しいです!」
幽霊はあわよくばといった風に、何かを投げる様な仕草をしてみせたが、
さすがに子供っぽすぎると自分でも思ったのか、恥ずかしそうに苦笑いした。
その様はどこかあどけなく、彼女のふわりと揺れるワンピースと相まって、シャチは思わず"可愛い"と思ってしまった。
だっておかしいのだ。
この幽霊には、ホラー的なおどろおどろしい要素など皆無なのだから。
怖がり続けようにも、彼女はあまりに普通に喋るのだから。
だから、彼女が普通の女の子に見えても仕方ないのだ。
「……お前、さ」
「はい?」
「もしかして……"ララ"っていうの?」
「……」
彼女は僅かに目を見開いた。
きっとシャチの言ったことは当たっていたのだろう。
カメオの持ち主は彼女だし、そうすると彫られた名前は彼女の名前。
この華奢なネックレスが彼女がこの世に存在していたという証だった。
しかし彼女はすぐには返事をせずに顔を逸らした。ふわりふわりとこの世のものでは無いのだろう身体が揺れる。
シャチは彼女が次の言葉を繋ぐのを静かに待った。
「"ララ"は死にました。もう娼婦として生きるしかなかったララは死んだんです」
「じゃあ、お前の名前は?」
「……忘れちゃいました。今はただの浮遊霊です」
「やっぱ幽霊なんだ?」
「残念ながらそうです。あなたは?良かったら、名前教えてください」
「おれは……シャチ」
「シャチ……。私のこと見えたの、シャチが初めてです」
彼女は本当に嬉しそうに頬を綻ばせた。
"ララ"という名前を出した時に見せた、どこか翳りのある表情はもう無かった。
身体が透けていて、足が無い。しかし彼女は普通の女の子だった。
少なくとも、シャチの目にはそう映った。
この少し暗い袋小路に、彼女はずっと独りで漂っていたのだろうか。
どうして、幽霊なんてものになってしまったのだろうか。
太陽が少し高くなってきた時間。
何とも幽霊らしくない幽霊の、誰にも聞こえない笑い声が袋小路に響いていた。
(腰抜けたの、大丈夫ですか?)
(お前が神出鬼没だからだろ!)
(だって幽霊ですし)
(……)
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