繋がる手のぬくもり


窓の向こうは何処までも続く闇色の深海。揺れ動くことの無い船内は、先程から漸く静けさを取り戻し始めていた。


船長室は水を打った様な、物音一つでさえも許されないといった静寂に包まれていた。

ローは細く頼りない点滴台に吊るされた袋から落ちる薬品の速度を確認すると、その管に繋がれ眠るレキを見下ろす。
先程からレキは、一度も目を覚ますことなく、眠り続けていた。

僅かに上下する胸の動きは、それでも近付かなければ確認することは出来ない。幾分か血色の良さを取り戻したとはいえ、今だ白さが際立つ顔は、寝息の気配すらさせないほど穏やかだ。

硬く閉じられた瞳は、ぴくりとも動かない。


ローはベッドの縁に腰掛けると、点滴のために出していたレキの右手を、柔らかい綿を掴むようにそっと握った。


とくん、とくん、


小さな震動となって、彼女の脈が伝わる。

生きている。

その事実が張り詰めた心を確かに解しているようで、安堵感が僅かに漏らす溜め息は、部屋の空気を軽くしている気がして。

ローは先程から幾度となくこの行為を繰り返していた。





ベポによって連れ戻されたレキは、異常な程の高熱に呻くことさえできない状態だった。

唯一の救いと言えば、海に落ちる前に気を失っていたこと。そのお陰で必要以上に海水を飲まずにすんだ。

だからといって、この高熱で冷たい海に転落したのだ。ショック死してもおかしくない状況に、ローは初めて戦慄をおぼえ、脈を確認する手は少し震えていた。



「……レキ」



手を握っても、握り返してはこないし、名前を呼んでも、応える声は聞こえない。

胸を締める、言い様の無い不安。こんな感情が自分にあったのかと思う。

読みかけの本を開いてみても内容なんて全く頭に入ってこなくて、気付けばまたこうしてレキの手を握っていた。


自分の処置は完璧だった。それに自信がないわけではないが、それでも不安は消えないのだ。

この繋いだ手のぬくもりを便りに、レキが戻ってくると信じるしか、今はできなかった。




「キャプテン……」



控え目にかけられた声にローが顔を上げると、ドアを少し開けて、こちらを伺うようにベポが立っていた。



「みんな手当て終わったよ。酷い怪我した奴はいないってペンギンが伝えてくれって」

「そうか……」



そういえばあの男は、レキが海に落ちた時にやけに取り乱していた。

普段からレキには甘い奴だとは思っていたが、今日のそれは少し変だった気もする。現にペンギンは、いつも無茶苦茶ばかりするシャチに制止されていた。

それは只のクルー同士だと見るには、少し奇妙な違和感。



「ペンギンはどうしてんだ」

「さっきまでみんなの手当てしてて、今は操舵室にいるよ。浮上するとこ探すって」



頭があがらない程の副官っぷりだと思いながら、自分がレキに付きっきりのせいかとも思う。

しかしそれを許しているのもペンギンで、クルー達もなにも言わない。

さすがに海軍に襲撃された後で、自分が船のことに携わらないのは良くないのだろうが、やはり今はこの場を離れる気にはなれなかった。



「レキ、まだ起きないの?」

「……あぁ。起きたら伝えてやるよ」

「絶対だよ、教えてねキャプテン」



ベポはこちらに来たそうにしていたが、ローがレキの傍にいることに遠慮したのか、何度も念を押してそのまま部屋を後にした。

ベポにまで気を遣われるとは。
ローは自嘲し苦く笑った。



また静かになった部屋で、変わらないレキの眠る顔を見ていると、本当はこの場に来たかったのは、ベポではなくあの男だったのではないかとローは思った。

レキとペンギンはどういう関係なのだろう。ただのクルー同士というだけなのだろうか。


どうして今、こんなことに気がかかるのか分からず、やけに苛立ちを孕む。ただレキの心配だけをしていれば良いはずなのに、一度頭に浮かんだ疑問は消えることなく心を掻き乱した。

この苛立ちは、あの時に似ている。

彼女が部屋にいなくて、誰かと一緒にいるんじゃないかと思った、あの夜と。あの時と違うのは、レキがここにいるのに、遠くに感じるというだけ。

レキの目が覚めれば、きっとこんな苛立ちもなくなる。食堂で眠りこけてた、レキを見つけた時のように。


今日、約束をした。
これではあの時と立場が逆で、今度は過ぎる時間を待つのはローの方だった。
いつ目覚めるともしれないレキを待つ心地は、あの時彼女が感じたものと似ているのだろうか。



「早く起きろ……」



ローは握った手の上に額を寄せると、少し掠れた声で呟いた。




















「っ!」


ぴくり、と。
ローの手を、レキの手が握り返した。


ローは瞳を見開き、バッと顔を上げる。

そこには変わらず横たわっているレキの姿。ただ、その瞼は僅かに持ち上げられていて、視線はローに注がれていた。

ローは身体を寄せ、レキの顔を両手で包みこむ。先程まで寝息すら感じなかったレキの唇からは、息をする音が確かに聞こえていた。
それを聞き逃さないように、未だ虚ろな彼女と視線を絡める。



「俺がわかるか?」

「……せ、…んちょ……」



呟かれた自分を呼ぶ声に、ローは込み上げる衝動を抑えられず、そのまま頭を抱える様に抱きしめる。

そんなローの背中に力無く回された手は、次第に彼の服に皺を寄せ、きつく握られていた。
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