誰かが、隣にいると思うと
パタン、
静かな部屋で、本の閉じられた音がやけに大きく響いた気がした。
拳大もあるようなその大きく分厚い本は、その見かけに見合う以上の情報を網羅していて、ローは一度閉じた本をまたパラパラと捲る。テーブルに置かれたまだ薄い、それでも確かに分厚い本と合わせて三冊、とりあえず内容を把握したくて速読してしまったが、これはもう少しじっくりと時間をかけて読みたいなどと、久し振りの実のある収穫にローは満足げに息をついた。
そしてふと、ローは顔をあげる。気付けば船長室は真っ暗だった。ランプすら付けず、窓からの月明かりだけで本を読んでいたということにローもさすがに驚く。
いつもはいくら酷くても暗くなればランプに灯りを灯すし、息抜きにコーヒーでも飲むものだ。
頭が少しぼおっとするのは、それだけ熱中しすぎていたせいか。
丸くぽっかりと空いた窓から何の気なしに空を見上げると、いつの間にか雪は止んでいたようだった。空を覆っていたはずの雪雲は何処かへ行ってしまい、歪な楕円を描く月がぽつんと見える。
高い空に小さく光る月。
何か忘れているような気がする、そんなことを思いながらゆるゆると欠伸をしながら思考を巡らせたローは、途端に目を見開くと弾かれたように立ち上がった。
「今何時だっ」
平素の彼では考えられないような慌てようで、ローはランプに灯をともし、時計を見上げる。時計の短針は、無情にもUとVの間を指していた。
「……あー…」
ローはガシガシと頭を掻いて重い息をついた。
大抵の場合、新しい島に上陸した初日をレキは船番をして過ごす。
夜を通して酒を飲むなんてことは、殆どしたことがないだろうし、その理由をローも知っていたため、たまには夜の街に連れ出してやろうと思っていた。
それに、せっかく冬島に上陸したのだから、雪が好きが彼女に見せてやろうと思っていたものもあった。
しかし気付いてみれば、時間はもう深夜。軽く触りだけを読もうと、本を開いたのが間違いだったろうか。
昨日の甲板で見た、レキの表情が思い浮かぶ。ほんの気紛れで言った言葉に、レキは何故かとても喜んでいただけに、珍しくローの胸にはちょっとした罪悪感の様なものが芽生えていた。
これがシャチやベポとの約束であったなら、ここまで気を揉むこともなかったのだろうと思う。きっと部屋に篭っている自分に気付いたら、そのまま飲みにでも出てしまうだろう。
そう思うとレキも自分が部屋に篭っていれば、何をしているかくらいの判断は付くのではないかという考えに行き着き、いい加減ローはあまり深く考えることがバカらしくなってきた。
レキもこの船のクルーなのであるから、十分に自分の性格は理解しているだろう。ここまで気を揉んでやる必要もない。明日になれば言われるであろう小言も、あえて聞いてやればいい。
「どうせもう寝ちまってる」
そう自分に言い聞かせる様に、ローは誰とも無しに呟いた。
珍しくでかけようと誘ったから、レキは喜んだだけだろう。それに自分が気紛れなことも、よくわかっているはずだ。
きっともう寝てしまっている。
落ち込んでいるわけもない。
そうだといい。
少し後味が悪いような違和感を感じながらも、ローはとりあえずコーヒーを飲むか、と食堂へ向かった。
***
廊下の明かりは落とされ、妙に静かだ。船長室から一歩外に出れば、思わず身震いするほど寒い。
足早に食堂を目指すが、その途中レキの部屋の前を通りかかった。
ローは僅かに視線をやりそのまま通りすぎたが、しばらく足を止め、そして後ろに2、3歩戻りそのドアノブに手をかけた。
音を立てないように、ドアを開ける。部屋の中はやはり真っ暗だったが、何より静かすぎた。
「……いないのか?」
部屋の中に置かれたベッドには膨らみがない。
こんな時間に部屋にいないとなると、外に出たということだろうか。中々部屋を出てこないローを待ちきれず、街にでも繰り出したのかもしれない。
しかし夜には必ず船に戻ってくるレキが、こんな時間にまで戻っていないのはおかしかった。
少し、少しだけローは眉根を寄せる。レキに限って酒場で酔い潰れているということはないだろう。久々の上陸だといっても、他のクルーの様に意識がなくなる程飲むなんてことはしないし、レキは自分が女だということも十分理解しているから、ちゃんと限度を知っているし弁える。
となると、街の宿屋にでも行ったのだろうか。
一人で?
それはあまり考えにくかった。
宿に一人で行くくらいなら、船に戻ってくるだろう。
……じゃあ誰かと?
無性に、えも言われぬ感情が沸き起こった。
何故かという理由もわからず、そしてこれが誰に向けられているのかもわからず、しかしローの中に確かに生まれたその感情は、ロー自身にとっても予想外で。
最初にレキを連れ出そうとしたのは自分なのに、何故かそれを横から奪われたような気分になった。
元々自分が本に没頭するあまりの失態ではあったが、それを理解していても尚、ローの不愉快な矛先は、目に見えぬ相手に向けられる。
今、誰かがレキに触れていると思うと胸が酷く不快に歪み、焦れるような苛立ちが頭をめぐる。しかしだからといって、今の自分には何かすることもないし、レキをそこまで拘束する理由もない。
……理由なら、ある。
レキはおれのクルーだから。
勝手に手をつけられると、
苛立つ、だけだ。
らしくもなく乱れる感情に、ローは深く長いため息をつくことで終止符を打つ。
とりあえず今日は、何か飲んで寝てしまおう。
長時間の速読で、実は相当に身体が疲れを貯めていたローは、苛立ちという感情に振り回されること自体が面倒くさくなり、そんなもの全てをまとめて、放棄してしまおうとした。
明日レキが戻ってきたら。
全てはそれからでいい。
ローは荒々しくレキの部屋のドアを閉めると、また寒い廊下を足早に進み、食堂を目指した。