―― side H
真っ暗な闇の中をゆらゆらと漂っている気がした。
身体中の力が全て抜け落ちてしまった様に、指ひとつ動かせない。
ただ胸の奥でジリジリと、焼けつくような痛みだけが妙にリアルで、わけもなく悲しかった。
「ん……っ」
うっすらと瞼を開けば、明るいランプの揺らめきが目に飛び込んできた。何度か瞬きをしていれば、ボヤけた視界は次第にクリアになっていく。
瞳が捉えられる範囲で辺りを見渡せば、どうやらそこは白い部屋で、自分は何かに寝かされているようだった。
「……っこほ」
「あ、気がついた?」
思った以上に擦れて言葉にならず咳き込む。すると急に視界の中に、白く大きな影がぬっと入ってきた。
驚きで身体を硬直させる。目の前の大きなものはどうみても白熊で、嬉しそうに何度も声をかけてきた。
「意識がもどったらもう大丈夫だってペンギンも言ってたよ!痛いとこない?寒くない?」
「えっ、と……」
「あ、おれはベポって呼んでね。君は?」
「……、レキ……」
急かすような質問の嵐に、女―レキ―はとりあえず頭にポンっと浮かんだ名前を口に出してみた。するとそれはすんなりと言葉になり、自分の胸にストンと落ちる。
レキ。そうだ、レキは私の名前だ。何か妙に納得した気持ちでほっと息をついた。
それにしても状況が飲み込めない。
とりあえず身体を起こそうと腕に力を込めると、ビキビキとひきつるような痛みが身体中に走り、レキは思わず声をあげた。
「っあ"…」
「まだ無理しちゃだめだよ」
慌てたベポが身体を支えてくれた。そのふかふかの手に甘え、またもやベッドに逆戻り。
気付けば自分の身体には至るところに包帯がまかれているではないか。
目の前にいるこの大きな白熊が手当てをしてくれたのだろうか。こんな大怪我、一体どこでしたのだろう。
レキはゆっくりと視線をベポに向けると、僅かに口元を緩めた。
「ベポ……が、手当てをしてくれたの?」
「酷い怪我とかはペンギンがしてくれたけど、おれも手伝ったよ!」
「?……ありがとう」
ペンギン――それは先程も出てきた名前だった。ここにはベポ以外にも誰かがいるのだろう。
見ず知らずの自分にこうやって手当てをしてくれて看病をしてくれたベポに、レキは肩に入れた力を少し抜いてお礼を言った。
ベポも嬉しそうに笑うから、その場には穏やかな空気が流れ、レキの表情もやっと柔らかくなった時だった。
「おい」
「!」
いきなり聞こえた自分たち以外の声に、身体をビクリと震わる。どこから聞こえてきたのかと顔をあげると、ベポが慌てて後ろを振り返りその場を飛びのいた。
そこにはすらりとした細身の男が扉にもたれかかっていた。身の丈もあるような長刀を持ち、目深に被った帽子から刃のように鋭い視線を向けている。
隠されることのない警戒心に、レキはどうしたらいいか分からず、不安げにベッドの中からベポを見上げた。
「この船のキャプテンだよ。怖がらなくても大丈夫……たぶん」
語尾に小さく付け加えられた言葉でどう怖がらなければいいというのだろう。
グッと息を飲んだレキはゆっくりと身体を起こした。さすがにこの船のキャプテンだという男の前で寝ているわけにはいかないだろう。
すると優しい白熊はレキの身体を支えて起こすのを手伝ってくれた。
その様子をただ黙って見ていた男―トラファルガー・ロー―は、静かに口を開く。
「お前は海賊か?それとも海軍か」
「へ……」
「能力を持て余して、海楼石の錠をつけたまま海に捨てられたか」
「……錠?」
ローの言葉にレキは初めて自分の両手首に石の錠が嵌められていることに気付いた。
「え……なに、これ……」
それはいやにひんやりと冷たく、腕に嵌められたその部分から重怠いような倦怠感が身体を浸食していた。
驚いた様子で錠を見るレキに、ローは訝しげに眉を寄せる。綺麗な顔をしている分、睨まれると迫力がある。
レキは腕の錠をぐっと握り、自分もローを見上げた。
この男には直感的に逆らわない方がいいだろうことはわかる。それでもレキは答えることができなかった。
「質問に答えろ」
「えっと、その……」
「お前はどこからきた?」
「……わから、ない…です……」
わからない。
そう、答えがあるとすれば『わからない』だった
海賊、海軍、海楼石の錠。
どこでこんな大怪我を負ったのか。
そしてどこからやってきたのか。
ローの言った言葉がぐるぐると頭の中をめぐる。しかしどうやってもそれらの答えは繋がってはくれない。
とりあえず目の前の男はどんどんと不機嫌極まりない様子になっていく。何か答えなければ。しかし焦れば焦る程、何にも浮かんでこない。
「わからない、てのは都合の良い言葉だな。てめぇの名前しかわからねぇって?」
「ごめんなさい……本当に何にも――ッ」
ズキンッと頭を鈍器で殴られた様な痛みが走った。レキは小さく呻き声を上げ、側頭部を抑えたままぐらりと体制を崩す。
しかし待っていたのはひんやりとしたシーツの感触ではなく、温かい腕の中だった。誰か、なんて考える余裕はなかった。
大きな鐘がひっきりなしに頭の中で鳴り響く。だんだんと意識は虚ろになっていった。
「おい、安定剤と――……」
「あ、アイアイ――……」
ごめんなさい
頭の中で誰かが呟いたのを感じたと思った時には、レキは意識を手放していた。