19

 ランプの灯りがゆらゆら揺れる。自分が使わせてもらっているものより、よっぽど大きくてふかふかなベッドに座るように促されたレキは、背筋をピンと伸ばして目の前で何冊かの本を開く男に目を向けていた。
 近くには周りを本の山でぐるりと囲まれた黒革のソファ。肌触りもきっと良いのだろうそれに腰を下ろしたローは、レキには視線を向けず、本をなぞるようにして呟いた。


「記憶はどうだ」
「まだ何も。変わりないよ」
「思い出そうとすると頭が痛んだり、新しいことを覚えるのに支障はあるか?」
「痛むっていうか気持ち悪い、かな。ぽっかり抜け落ちてる様で……たまに凄く、悲しく、焦ったような気持ちになるの」
「……」


 ローは睨み付けていた本を勢いよく閉じると、もうそれには興味無いとばかりに本の山に積み上げた。


「健忘という症状に似てるな。頭部に外傷もねぇから、心因性の可能性が強い」
「心因性……?」


 心が原因ということだろうか。しかしそれをローに問う前に彼は立ち上がり、そのまま何やら薬品が納められている棚の前でカチャカチャと手を動かし始めた。その様子を見てこの人はお医者さんだったなと改めて思う。この船のクルーは皆ある程度の医療知識を持っているとベポに聞いたことがあったが、それでもこの船長の知識や技術には遠く及ばないらしい。

 "死"という物騒な言葉が刻まれた手から、人を生かす薬が作られたり、傷を癒す処置が行われたりするのは矛盾している気がしないでもない。ふと彼に点滴を打ち直してもらった時のことを思い出して、今はもう痕の残っていない腕をさする。
 レキの怪我はもうだいぶ良くなってきていた。

 しばらくして、ローはレキに歩み寄ってきた。
 正面に立たれ、只でさえ身長差のあるローの顔は随分遠い。見上げるというよりも仰ぎ見るといった感じで顔をあげると、ローはその手に持った透明なフィルムをずい、とレキの顔に突き付けた。中には白いカプセルが何個か入っていて、わけもわからずに受け取ると、ローはそのままレキの隣にどかりと腰を下ろす。その衝撃すらほわんと柔らかいベッドに少し驚いた。


「記憶なんてのは消えても身体が覚えてるもんだ。それに引っ張られて、いつかは思い出す」
「これ、なに?船長さん」
「発作が起きたら飲め」
「発作?」
「前に泣いただろ。そんな時だ」
「あ……」


 自分の記憶にある限り、泣いた時なんていうのはあの一回だけだった。
 何故ローが知っているのだろう。もしかしてあの時、少し開いていた扉の向こうにはローがいて、あの時のことを聞かれていたのだろうか。船を降りたいと訴えた自分が、船を降りろと言われて泣きじゃくっていたなんて、矛盾もいいところだ。しかもあの時以来、自分とペンギンが席を共にする時は何処と無く気まずい雰囲気がある。シャチなどはそれを敏感に感じ取ってくれて気を遣わせたりもしていた。

 もしかしなくても、自分は酷く情けなくて、面倒くさい女だとこの男の目に映ったのではないかと思う。そして彼のクルーともう問題を起こさない様、この薬は処方されたのではないか。


「あの時は……何だか急に辛くなって」
「……」
「も、もうあんなことないから。船の雰囲気を悪くしたりとか、しないようにする……」


 折角ペンギンとは少し話をすることが出来た。ここでこの船長に疎まれ、次の島まで険悪になるのは避けたい。折角乗船を許してもらえているのだから、彼の機嫌を損ねるようなことはしたくないと、必死に言い訳の言葉を並べた。しかしそんなレキの思惑を……


「バカか、お前」


 という一言でローは一蹴した。


「なっ、ばっ」
「記憶は無くなっても、身体は覚えてると言ったろ。どういった時に発作が出るのかもわからないのに、お前のするしないは関係ない」
「じゃあ、この薬は……」
「黙って持っとけ」


 ぶっきらぼうに言うローから視線を外すと、レキは薬に目を落とす。つまりこれはローが自分の症状の具合を考え、辛い時は飲めと処方してくれたということでいいのだろうか。どうしてこんなことをしてくれるのだろうと考えてみても、お世辞にも面倒見が良いとはいえないローの気持ちはわからない。しかしこれは好意なのだと思うことにして、レキはそっと両手で袋を包んだ。そうすればじんわりと胸が温かくなるような気がした。


「記憶、早く戻らないかなぁ」
「戻っても良いことばかりじゃねぇぞ」
「え?」


 予想外の言葉にレキは、頭一つ高いローの顔を見上げて首を傾げた。当の本人は何故か口元に手を当てて黙っている。まるで言わなければ良かったとでもいうような仕種だったが、あえてレキは言及した。


「船長さん、どういうこと?」
「…………思い出したくねぇから、忘れてるのかもしれねぇしな」
「思い出したく、ないから……」


 その言葉にレキはハッとした。そもそも記憶喪失なんて、ある日突然何の原因も無しになるわけではないだろう。ローの言った様に辛い記憶を自ら封印して、忘れてしまっているのだとしたら。ふと、以前理由もわからず怯え泣いてしまったことを思い出す。もしかしてあれが記憶を失った原因と関係しているのだとしたら。
 あの時は苦しくて、辛くて。それでも原因がわからないから時間が経って気持ちが落ち着けば涙は止まったけれど、思い出してしまえばどうなるのだろう。

 私は耐えられるのだろうか。この時はじめて、レキは記憶を取り戻すということが少し怖くなった。


「……でも」


 掌にのせられた薬の入った袋を見つめる。ローの視線がこちらに向いた気がしたが、顔は上げなかった。


「思い出したい、よ」
「……」
「きっとそれだけじゃない。楽しい記憶もきっとたくさんあるし」


 そっと顔を上げるとローと視線が絡んだ。この人と真っ直ぐ視線を合わせるのは苦手だ、とレキは思う。考えていることを全て見透かされそうで、それでいて彼が考えていることは何も見えてこない。


「ハートの皆や、船長さんに優しくしてもらった様な、幸せな記憶もきっとあるはずだから」
「……海賊相手に優しい、か」
「いけない?」
「いや、良いんじゃねぇの」


 そう言ったローの口角は少し上げられていて、レキはふふ、と声を漏らして笑った。
 笑い合う、そんなことがやけに嬉しい。それを嬉しいと思える自分だから、無くなった記憶はきっと辛いことばかりでは決してないのだと思えた。レキはにやけそうになる顔を隠すため、ベッドから立ち上がった。きっと顔はランプの灯りの逆光でよく見えないだろう。
 ローに背中を向け、それでも少しだけ振り返って言った。


「ありがと、船長さん。気を遣ってくれて」
「何か思い出したら言え。おれの船に乗ってる間くらいは面倒みてやるよ」
「うん……わかった。ちゃんと報告します。思い出せたらいつか絶対お礼するね」

「今でも良いぜ?」
「え」


 突然ローが手を伸ばしたかと思うと、レキが反応するよりも早く腕を捕まれ、強い力で引かれた。驚くよりも先にレキの身体は倒れ込み、気付けばローを後ろのベッドに押し倒しているような体制になっていた。


「ククッ、大胆だな?」
「やっ、ば、ばか!!離して……っ」


 起き上がろうとするも、ローに背中と頭を押さえられていてジタバタともがくことしかできないレキ。密着しているせいか、彼の鼓動すらも聞こえそうな距離であるせいか、頬に熱が集まるのが分かって、余計に焦ってしまった。


「ちょっと見直したのに!」
「そーか、残念だったな」
「もうっ!」


 やっぱり何を考えているかわからない。レキはこの後何とか腕の中から脱出すると、風のように船長室から出ていった。
 何故か、ローの笑い声が聞こえた気がした。
 Book 


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -