08

 西の空高くに浮かんだ丸い月が、やけに明るく輝いている。大海原は飲み込まれそうな程に深い、墨汁を溢した様な重たい色をして揺れていた。穏やかな潮風が気紛れにその上を滑れば、月の光に照らされた波の先が、銀のラインを縁取ってきらきらと光った。

 ローは誰もいない甲板で、無限に繰り返される波の動きに目をやりながら、船の手すりにもたれかかっていた。海王類に襲われる心配もないこの近海では、夜の見張り番であるクルー達の気も緩むのだろうか、見上げた見張り台では誰とも目が合わなかった。
 ロー自身もいつも携えている長刀を手にしておらず、穏やかな夜の静寂が横たわっていた。

 静かにローは自分の左頬に指を這わせる。
 もうそこに痛みは無く、腫れてもいない。力一杯といった感じに叩かれたと思ったが、やはりそこは女の力なのだろうか。もう記憶を辿るしか、れきに手を上げられたという事実を確認できなかった。


 面白い女だった。そうローは思う。
 この広い海でローの名前と顔は広く知れ渡り、大抵ローに接触してくる人間は、打算的な画策を持って近付いてくる。それ以外の人間は彼の噂と懸賞金の額に怯え、近づこうともしない。しかしれきは、ローのことを知らないながらも、不躾な視線を向ければ露骨に気まずそうな顔をするし、受け答えも普通にする。海賊だからと怯えたり媚びたりもしない。元々感情がそのまま表情に出る性格なのかもしれないが、それを隠そうともしなかった。
 逆らえば命が無いかもしれないというのは理解しているだろう。それでもローの頬を叩いたのは咄嗟の判断で、そこにあるのは彼女の心に沈んだプライド。今はまだわからない能力とあわせても、誰にも屈せずに生きてきたことを思わせる。怯えながらも自分を必死で守ろうとしていた。感情にまかせて行動するのは馬鹿だと思うが、きっとれき自体は決して頭が悪い訳じゃない。


 純粋に気になった。
 彼女が今まで、どうやって生きてきたか。
 何を目的に、この広い海に出たのだろうか。

 そんなことを思い浮かべて、ローは自分が可笑しくて喉の奥で笑った。


「どうでしたか」
「……一発叩かれた」


 突然かけられた控え目な声は、それでも夜の静けさの中で際立って聞こえた。ローは驚くこともせずに、視線だけを寄越して答える。いつのまにか佇んでいたペンギンは、ローのどこか機嫌が良さそうな声に目深に被った帽子の下で僅かに眉を寄せた。


「しばらく船に乗せる。色々と気になることもあるしな」
「しかし……」
「おれが決めたことだ」


 ペンギンはどこか不満があるといった風に見ていたが、ローはそれを無視した。用心深いペンギンが言いたいこともわかるが、例えれきが悪意を持ってこの船に残ったとして、彼女一人でどうこうできるほどこの船は柔じゃない。もし邪魔になれば、それこそ本当に海にでも放り出してやればいいし、それを躊躇う自分でもないのだから。


「他のクルーにも伝えとけ。ベポ辺りは喜ぶだろ」
「……わかりました」


 ペンギンは苦く頷くと船の中に消えていった。

 穏やか近海を漂う海賊船。退屈な航海は、少し面白くなりそうだ。
 頬を撫でる潮風だけが、ローが彼女の名前を呟いたことを知っていた。

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