07

 完全に遊ばれている。
 よほど性格が悪いか、ひねくれているのか、真面目に話をする気がないのか。そろそろ慣れない敬語を使うことにも疲れてきたレキはふうと息を吐きだす。実際は敬語に慣れているかどうかなんて分かりっこない事ではあるのだけれど、疲れてきたことを慣れない敬語を使ったからだと思いたかった。


「ククッ、変な奴」
「貴方に言われたくないです」
「そんな口きいて良いと思ってんのか。おれは今すぐお前を海に叩き落とすこともできるんだぜ」
「っ」


 それを本当に、何の躊躇いもなしに実行してくれそうな男であるため、レキはまた言葉を飲み込むしかなかった。視線を合わせるとまた無意味な言葉の投げ合いが続きそうだったから俯いたまま、ふとこの人は何故ここに来たのだろうと思う。
 先程は様子を見に来たということだろうが、二度も足を運ぶ理由が分からなかった。監視をさせるのならクルーだけで事足りるはずだし、現に先程までここにはシャチがいた。そしてシャチが呼びに行ったのも、確かこの人ではなかったはずだった。
 そう考えると先程の会話もわざわざするようなものでも無かった様に思えてきて、レキは不思議に思った。


 僅かに顔をあげる。そうすれば当然の様にこちらに目を向けていたローと視線が絡み、今度は逆に逸らせない。この海賊団の船長であるトラファルガー・ロー。切れ長の瞳は何を考えているのかよくわからなかった。


「船長さんは、どうして」
「あ?」
「えっと、どうして……ここへ?」


 ローは、その答えを何も言わなかった。しかし質問した手前何かを喋ることもできず、レキはただローの返事を待つ。目の前に横たわる沈黙が何を意味するのかわからず、それでも何か意図があることを暗に示していた。


「せ、」
「お前がどんなやつか気になった」


 何故今まで何も喋らなかったのに、自分が声を発したら被るのかと疑問に思うも、レキはローから告げられた言葉に目を瞬いた。どうもなにも、自分ですら自分のことが何もわからないのに。そんな思いが顔に出ていたのかどうかはわからないが、ローはその腕を伸ばし、レキの頬に触れようとした。

 驚き身を引くも、既にかなり端に寄ってしまっていたため、逃げ場がない。背を逸らすくらいしかできなかったレキは、簡単にローの手に捕まった。
 頬を節くれだった彼の掌が掠める。思わず身体を震わせると、ローは口元を弧に歪めて笑った。


「お前も気になるだろ?自分のこと」
「っそりゃ……なりますけど」
「今までどうして生きてきたか、この錠を外したらどんな能力が使えるのか」


 頬に触れている反対の手が、レキの腕に触れる。しかし自然に寄せられた手は、決して錠には触れられていなかった。


「おれなら、これを取ってやれるぜ」
「さっきは取らないって言ったじゃない」
「お前の態度次第だな」
「私……?」


 顔が近い、と思った時には、ローはスツールから立ち上がってベッドに身体を寄せていた。腕を突っ張ろうにも、そこには彼の手が重ねられていて動かせない。どうしようもなく心臓の音が煩く響く。心なしか頬に熱が集まる気さえする。ローの言葉の意味もよくわからないまま、身体は蛇に睨まれた蛙のごとく硬直していた。

 端正な顔立ちのローに、こんなに近くで見つめられたら、緊張しないわけないし、恥ずかしくないわけがない。この反応は女としての生理現象だ。こんな状況にもかかわらず冷静に分析する頭が、どうにかこの状況を打破しようと考えを巡らせていると、頬に添えられた手が少し動いた。

 そしてその手がある種の意思を持って胸元に降りてくるのを感じると、レキは金縛りが解けたかのように、咄嗟に目を見開いた。




――パンッ


 乾いた音が、部屋の静けさを際立たせる様に響く。さっきまで目があっていた筈のローは、右下に視線を落としていた。正面に見える彼の左頬は少し赤い。
 急に呼吸が早くなる。ジンジンと痛むレキの右手は宙に浮いていた。

 ゆっくりとレキの方を向くローの瞳には怒りというよりも、驚きの色が揺れていて、レキは自分が何をしてしまったのかわかっていながらも、右手を庇う様に慌ててシーツを抱き寄せて、ベッドを飛び降りた。
 点滴の針がブチッと音を立てて外れたが、興奮の方が優っているのか、痛みを感じなかった。


「っそ、そんなコトするために、生かしたんだったら、自分で海に飛び込むからッ」
「……」


 レキの行動も、そしてその焦った言葉に見える動揺も、ローには予想外だったのか、動きが止まっていた。ベッドを挟んで反対側にいるローに怯える様に、レキは背をぴたりと壁にくっつける。彼が向けた手にどんな意味があるのか、瞬時に理解したレキは、突発的にローの頬を叩いていた。
 記憶が無いことを良いことに手を出そうとしているのか。きっと何か利用しようとしていることはわかったが、そのための手段に、女だということを使われるのは何故かとても腹が立った。

 これは自分の内から湧く、プライドなのだろうか。


「女に叩かれるとはな……」
「あ、あなたが変なことするからっ!」
「お前な、おれに相手にされて喜ばない女なんていねぇんだよ」


 当たり前の様にいうローは、頬を叩かれたというのに愉快そうだった。ますます意味がわからないといった風に瞳を瞬かせる瞬くレキは、殺気立つ猫の様に警戒心をむき出しにして睨みつける。

 何故この男は、今笑っているんだろうか。


「こっちにこい」
「いや」
「なんもしねぇ」
「信じられるわけないでしょ」


 その瞳がギラギラと揺らめいていて、ようやくレキはこの瞳に映る感情を読み解く。これは子供の目だ。面白い玩具を見つけて、好奇心を隠そうともしない瞳。


「腕」
「え、……痛っ」
「バカだろ、お前」


 自分に反発する女の何が良いのかわからない。しかしこれ以上彼の好奇心というか、感情を煽るのは止めておこうとするも、それがもう既に遅いことにレキは、この時気付いていなかった。

 男の人を平手打ちしたのは、きっと初めてだと思った。
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