隣の部屋に人がいるというのは退屈せずに済む。
この広いゾルディック家の屋敷には隣同士の部屋は極稀で、その一室を私は与えられていた。
更に、私は普通に生活をしていた普通の人間だ。
日の傾きで時間を感じる生活をしていたため、唯一日の当たる一画と言っても過言ではない場所にあるこの日の当たる部屋を与えられている。
隣の部屋はあるときまでコロコロと人が入れ替わっていた。
最初は誰もおらず。
しばらく経つとカルトちゃんが。
またしばらく経つとキルアが。
そして、今は。
「今日は仕事ないの?」
「うん」
なにをするでもなくソファでボーっとしているイルミがいる。
そして私は大きなベッドに寝そべってそれを見ていた。
なぜかは分からないが隣の部屋にイルミが来てから人は変わっていない。
つまり、私の隣の部屋はイルミの部屋、となったようだ。
別に知らされたわけでもないが、イルミがこの部屋で寝泊まりしているのだ。
間違いないだろう。
「じゃあ、今日は暇なんだね」
「うん」
窓の外を見ながらイルミが言う。
隣の部屋に誰もいなかったときもあるが、その頃は寂しくてどうにかなってしまいそうだった。
この広い屋敷。
迷ったら一人で元の場所に戻ることは出来ないだろう。
その為、どこにも行くことは出来ず、かと言って自分の部屋で籠っていると得体の知れない恐怖に苛まれた。
しかし、隣の部屋に人がいるとどうだろう。
壁を隔てたところには人がいて、わずかだが生活音も聞こえる。
部屋に一人でいても寂しくはなかったし、得体の知れない恐怖も襲ってこなかった。
扉を一つ開けて廊下に出て、隣の部屋へ続く扉を開けばそこには誰かがいる。
それだけで安心出来た。
今日は、いつまで経っても部屋からイルミが出てくることはなかったので自分から訪ねたのである。
部屋の扉を開けてくれたイルミはなんとなく眠たそうで、さっきまで寝ていたんだろうなと推測出来た。
「ヨウコ」
ふいにイルミが呼んだ。
「どうしたの?」
窓の外を見たまま私の名前を読んだので、外に何かあるのかとイルミのところまで行って窓の外に目をやる。
しかし、いつもと同じ森が広がっているだけでなんの変化も見当たらなかった。
「書庫に行ったことある?」
どうやら森になにかを見つけたわけではないらしい。
「“書庫”?」
イルミに目をやるも、彼の視線は窓の外に向いていた。
まるで一方通行の会話をしているようだ。
「そう」
「ない…」
というより、そんなところがあるなんて知らなかった。
この屋敷で私が知っているところなんて数えられるくらいしかない。
最初こそ色々教えてもらっていたが、それを知るのも一つの楽しみだと気付いてからはあえて案内はしてもらわずに自分で歩きまわり、どこになにがあるかを把握するようにしている。
ここに連れてこられたとき、ずっとここに半監禁されることは分かっていた。
だからこそ、楽しみを一つでも多く取っておきたかったのだ。
「今から行ってみる?」
ようやくイルミは私を見た。
その眼にはなにも映っていない。
「あー…どうしようかな…」
先ほどもいったが、どこになにがあるかを探し、把握するのは良い退屈凌ぎになる。
その為なるべく自力で見つけたいのだが、書庫というくらいだから本が置いてあるだろう。
本こそいい退屈凌ぎになりそうだ。
「言っておくけど、一人だとそう簡単には辿り着けないよ?」
「そうなの…?」
「うん」
いつまでも見つからない書庫を探すよりは、その場所を暗記して中身を楽しんだ方が有効そうだ。
「じゃあ、案内してもらっていい?」
「分かった。行こうか」
そう言ってイルミはソファを立つ。
私も後に続いて部屋を出た。
暗く長い廊下の先。
もう何個角を曲がったのか分からない。
ようやく辿り着いた書庫。
しかし、私はこれまでの道のりを思い出すので必死だった。
「ヨウコ、着いたよ」
イルミに声を掛けられてようやく何個目の角を…などと考えて折っていた指から目を上げた。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は古い本の匂いだった。
イルミが部屋の入り口付近を撫ぜると電気が点く。
壁一面の本。
かなりの広さの部屋だが、それを知れたのは天井の角を目で追ったから。
目の前には本棚があり、奥は見えない。
右側と左側に人が通れる空間がある。
まさに図書館だ。
いや、普通の図書館よりも本の数は多そうだ。
「すごい…」
「暗殺家業ってかなりの金がもらえるけど、使い道なんて限られてるからね」
なぜこんな膨大な数の本が…と思っていたら心を読んだかのようにイルミが本棚を見上げ、奥へと足を進めながら言った。
私は大人しく付いて行くことにした。
「家族それぞれ使い道は違うけど、だいたい一緒なのが本なんだよね。暇つぶしにもなるし」
「へー…」
適当な本を手にとってパラパラと開いてみる。
あまり埃を被っていない。
「誰かが掃除してるの?」
「多分、使用人の誰かじゃないかな」
ということは、ここに来たくなったら執事室へ行けばいいのか。
そうすれば誰かが案内してくれるだろう。
執事室に行くのは散歩にもなっていい。
そんなことを考えながら、持っていた本を元の場所に戻し、適当に棚を眺めてみる。
同じ種類のものは同じ場所に並んでいる。
本当に図書館のようだ。
掃除もしているのなら、ここの整理もきっと使用人さんがしているのだろう。
ジャンルごとに分けられた上で順番に並んでいる。
本の背表紙を手の平で撫でながら棚を見て回る。
イルミはなにをするでもなく私の後についてきた。
ふと、イルミの足音が止まって手を打つ音が聞こえると彼はこんなことを呟いた。
「いっけない。忘れてた」
「仕事?」
「ううん。今、ヨウコが触っている本だけど」
「うん」
背表紙の文字を読んでみる。
しかし読めなかった。
見たこともない字だ。
私たちが使っている字に似てはいるが…。
どこか違う。
なんだろう。
「すごく希少価値の高い本なんだよね。だから取扱いには気をつけてほしいんだ」
希少価値という言葉が頭にズシンと響く。
私は慌てて背表紙に置いていた手を退けた。
私が手を退けた為、風が起きてわずかな埃が舞った。
背表紙をじろじろと見るも、本の内容を指し示すヒントはどこにもない。
聞いた方が早そうだ。
「これ…何の本?」
「これは、古い暗殺術が書かれた本だね」
「古い暗殺術…」
「だから、ほら。字が違うだろ?」
イルミが背表紙を指差した。
「これは俺たちが今使っている字の元になった字だよ」
「それは…とても貴重だね…」
「うん」
「学者さんとか財宝ハンターがめちゃくちゃ欲しがるんじゃ…?」
「そうだね。迷宮入りになっている事件を解くカギにもなるだろうから」
「もしかして…この部屋にはもっとすごいものもある…とか?」
「うん。正解。でも、そんなやつはだいたい読めない字で書いてあるから分かるはずだよ」
「つまり読めるやつだけ読めばいいのね?」
「…? 普通そうじゃないの?」
いや、まぁそうなんだけど。
「ここにある本は部屋に持って行ってもいいから」
「え!?」
書庫に来れば退屈凌ぎになる、とは思ったが本を持ち出してもいいとは思わなかった。
ここで読むにとどめるつもりだったが思わぬ朗報だ。
どうやら、さきほど言っていた貴重な本も含まれるらしい。
取扱いに気をつけさえすればいいようだ。
まぁ、それも“読めれば”の話だが。
「ヨウコはもう家族なんだし」
「でも…」
そう渋る私に、すでに母さんに許可は取ってある、と彼は付け足した。
どうやら元々私をここへ連れてくる気でいたらしい。
「ちなみに母さんが、ヨウコの興味をそそる本がここにあるか分からないからって…」
イルミは言いながら奥へと歩いて行った。
そこに扉が一つ。
まだ奥があるらしい。
彼が扉を開き電気を点けた。
「街で本を買い占めてきたんだ。この、奥の部屋が新しい本が置いてある書庫。元はただの空き室だっただけど、書庫にしたみたいだね」
後に続いて入れば最初の書庫とは違う少し新しい紙の匂いがした。
構造は先ほどの書庫と同じだ。
しかし一つ違うのは奥に机が一つあること。
そしてもう扉がないこと。
「書庫は最初のところとここの二か所。とは言っても、扉で続いてるけど。この机はヨウコがここで本を読むのに使ってほしいって」
イルミは机にもたれながらそう言った。
私は棚をぐるりと回ってみる。
図鑑や指南書、小説、本当になんでもある。
「すごい…」
感嘆の声が漏れた。
本当に本屋の本を買い占めたらしい。
この間、街へ行った時に寄った本屋と同じ本が多い。
背表紙しか見ていないがほぼ間違いないだろう。
まるで街の本屋にいる気分だ。
唯一違うのは人の気配がないことと、クラシックが流れていないこと。
「もし新しい本が欲しかったら言ってほしいって。すぐ用意するみたい」
「あ、ありがとう」
「礼なら母さんに言ってあげてよ。色々気にしてるみたいだから」
「そうなんだ…」
「ヨウコを無理やり連れてきたのは母さんで、母さんもそれを分かってるからね。不自由させたくないんだよ」
何一つ不自由な思いなどしていない。
私はこれ以上ないほど大切にされている。
「じゃあイルミには、連れてきてくれてありがとう」
そう言って頭を下げたら少し驚いた顔をしていた。
そして不思議そうな顔になる。
「せっかくだから適当に本選んで持って帰れば?」
「…うん、そうする」
しばらくの沈黙の後で発せられたイルミの勧めに従って、私は本を選び始めた。