息を整えながらマンションを見上げた。
新しいとは到底言えない我がマンションではあるが住めば都で。
まだ部屋まで辿り着いていないとは言え、ここまで来ると安心してしまう。
いつもならゆったりとエレベーターを待ってゆったりとした足取りで部屋まで行くのだが、今日は違う。
五階辺りからエレベーターが降りてくるのを待っている間も忙しなくキョロキョロ。
チラチラと階段を見てはこちらから行こうか考えていた。
四階、三階…と、ここ一階に迫ってきてはいるがそれでも階段の方が早い気がしてしまう。


チン、と扉が開ききるより前にその中へ滑り込み、三階を連打。そして今度は閉を連打。
そんなことをしても早く扉が閉まるわけでもないし、三階に着くわけでもないのにそうしてしまうのはそれだけ私が焦っているから。
頭の中で料理の工程を思い出す。何度もシミュレーションして失敗しないように。
そうこうしているとエレベーターは三階に着いた。
僅かな隙間が出来た途端そこをすり抜けて自分の部屋を目指す。
どうして急いでいるときに限ってイレギュラーなことが起こるのだろう。
取引先の無茶な注文を叶える為に終業時間を大きく回っても仕事に奮闘していた為、今日の予定が崩れてしまった。
今ごろ、料理を作って彼の帰りを待ち侘びていたはずなのに。
これでは十分なもてなしが出来ない。


廊下をカツカツと歩きながら鞄を漁る。
手に触れた鍵を引っ張り出して部屋の前に辿り着くや否や、それを鍵穴に突っ込んだ。
乱暴にガチャリと開けて鍵を引き抜くと体重を掛けてドアを開ける。
が、そこで固まってしまう。電気が付いている。まさか、消し忘れた?
そんなはずはない。家を出る際は電気が消えているか点検してから出るのが私の習慣で、今日も確認済みだ。
もしやと思って下を見下ろせば、見慣れた革靴が大きなスニーカーの隣に並んでいる。


「ん。おお、お帰り」


そう言ってキッチンから顔を覗かせたのは間違いなくミチル。
私の脳内にはクエスチョンマークがいっぱい。


「なんでいるの…?」


「え、ここ俺の家だし。…洋子の家でもあるけど」


「そうじゃなくて…」


確かに、ミチルの言う通りここは彼の家であり、私の家でもある。
しかし私が聞いているのはそんなことではなく、なぜこの時間に家にいるのかということだ。
いつもミチルの帰りは遅い。八時を回ることが多いのに現在の時刻は七時。
しかも七時半も回っていない。


「今日は早く帰してもらったの。まぁいいじゃない、そんなことは」


早く上がんなさい、と促されて私は玄関でパンプスを脱いだ。
玄関を通り、ダイニングを覗いて驚愕。
美味しそうな料理が、しかも私が頭の中でシミュレーションしていたラインナップが並んでいる。


「こ、これ…」


「あぁ、俺が作った」


「作れたの!?」


「作れない、なんて言ったことないだろ」


ミチルがこんな本格的な料理が出来るなんて思いもしなかった私はそれらをテーブルに運んで行く彼の背中を見つめるばかり。
そう、勝手に思い込んでいただけ。私が料理を作るのが当たり前で、ミチルはそれを眺めているのが常だった。
私の体調が悪いときのみ彼がその腕を振るってはくれていたが、今日ほど気合いの入った料理は見たことがない。


「俺の得意教科、覚えてる?」


お皿の位置を整えながらミチルが言う。
それは考えるまでもなく浮かんだ。
キッチンへ戻るミチルを目で追いながら答えた。


「理科」


「そそ。料理なんて理科の実験と同じ」


テキスト通りに進めていけば出来るのだと彼は数枚の紙を冷蔵庫から剥がして顔の横でひらひらさせる。
それは、私が今日の為に印刷しておいたもので、帰ってすぐに作れるよう、自ら冷蔵庫に貼っておいたのだ。
ミチルはそれを見て、このテーブルに並ぶ料理を作ってくれたらしい。
材料は昨日の内に買って冷蔵庫に入れていたからあとは作るだけだったのだが。
私より上手いんじゃないだろうか。
美味しそうな匂いを立てるそれらを見て、私の心は僅かに焦りを見せていた。
そしてドキドキも。


「なに突っ立ってんの。さっさと着替えて手を洗ってくる」


着替えもせず、鞄も持ったままで茫然としていた私は彼のその言葉でようやく動き始めた。
寝室に入ってスーツを脱いでいく。
まさか、あんな本格的な料理をミチルが作れたなんて。
キッチンで立っているミチルがいつもと違う雰囲気でかっこよかった。
ブラウスのボタンを外す手を止めてぼーっと思い出すのはさきほどのミチル。
手に付いたソースを舐め取る姿とか、お皿をテーブルに置いてから少しだけ回転させて整える姿とか。
思い出すだけで胸がドキドキする。


部屋着に着替えた後、キッチンまで行って手を洗ってくるとミチルはすでに席についていた。
そして私が席に座るのを待っている。
いつもと同じなはずのミチルが別人のように思えてならない。
まるで、まだミチルに片想いだったあの頃のように胸が高鳴っていた。


「なによ」


「え、あ、いや…」


ミチルを見たいのに顔が赤いのを気付かれたくなくて見れない。でも見たい。
そんな気持ちから、ちらちらと盗み見ては顔を逸らすことを繰り返していた私にとうとうミチルが疑問を口にする。
しどろもどろになっている私にミチルは小首を傾げたがあまり気に止めていないようで、


「ほら、冷めないうちに食べるぞ」


「うん」


いただきます、と言って箸を手に取った彼の後を追うように私もいただきますと呟いて箸を進めた。


「なんか、悔しい」


「なにが」


料理を作ってくれたミチルにはソファで休んでもらって後片付けをしていたとき。
皿を洗いながら呟いた私の言葉にミチルが反応する。


「料理出来るなんて全っ然知らなかった」



「まあ、言ったことなかったしな」


料理出来るっていうかレシピ通り作っただけだけど。
そう言ってまた顔をテレビに向ける。
それでも私の心は未だ焦り続けている。
どう考えても、ミチルの作ったものの方が美味しかったのだ。
更にレシピ通り作っても美味しく出来たりそうじゃなかったりして意外と難しいと思うのに。
この男はあっさりそれをやってのけた。
もっと料理の勉強をしなければと密かに決意をしながらお皿を洗っていく。


「ずっと作ってたの?料理」


「あー、一人で住んでたときはそれなりに。っつっても凝ったのはやってねーよ」


初めてじゃね、とか軽く言い放つミチルに口を尖らす。
初めてなのにあれだけ上手いということは、もっと練習すれば更に上手くなるということか。


「で、どうだったの」


「なにが」


半身を捻じるようにこちらを向いたミチルがソファの背もたれに腕を乗せ、その上に顎を置いて問う。


「なにって料理に決まってんじゃんか」


「……むかつくくらい美味しかったよ」


「なんだそれ」


フっと笑ったミチルがこれまたかっこよくて私はすぐに俯いた。
落ち着け私の心臓。
きゅっと締め付けるそれにそう言い聞かせて洗い物を終わらせる。


「でもやっぱり洋子の作ったのがいいや」


「へ…?」


「なんだよ、その気の抜けた返事。やっぱ、ほら、な。あれ、だよ…」


最初の勢いを無くしたミチルの言葉は段々と尻すぼみになっていく。
こういうところはいつも通りだ。
いつも通りのミチルを見て私の心臓もいつも通りになっていく。
それでもときめきは忘れないで。


「あれって…?」


先ほどまでのかっこいいミチルとの対比に噴き出しそうになるのを抑えてそう聞けば、彼は下を向いてしまった。
服の袖口の伸縮を確かめるように伸ばしたり戻したりして分かりやすく照れを示すと聞こえるか聞こえないかの声でぽつりと呟く。


「洋子が、作ったやつの方が俺は好き、だし。それに」


「うん…」


「あ、あ、あー、愛、情…とか?入ってんだろ…?」


「う、うん」


もう駄目だ。笑いそう。それと同時に嬉しくて顔が綻ぶ。
でもきっと、今笑ってしまったらミチルは絶対言ってくれない。
続けようとしているなにかを。


「そ、そ、っちの方がぁ…美味いっておも、思う、から…」


自分の感情を伝えるのが苦手なミチルが伝えようとしてくれている。
こういう空気自体彼は苦手なようですぐに大きな声を上げてぶち壊してしまうのだが今日はそんな様子はない。
彼が頑張っているのだ。私も、ぶち壊さないようにしなくては。


「だ、だから…」


服の袖口を触っていた手を握り締めて彼は私を見る。
真っ直ぐに。ふざけた様子はない。
またも心臓が騒ぎ出す。
そして、


「…これからも一緒にいてください」


そう言ってミチルは頭を下げた。
恥ずかしいのか彼は頭を下げたまま動かない。


「こ、こちらこそ。お願いします」


ミチルに倣って私も頭を下げた。
お互い顔を上げるタイミングが同じで、彼の顔は真っ赤。
私の答えを聞いて安心したのか、ミチルの顔に笑顔が広がる。
それにつられて私も笑顔。
すぐにテレビの方を向いてしまったけれど、嬉しさを隠し切れない様子が見て取れる。


付きあって二年目の記念日。
プロポーズともとれるそんな発言を彼はしてくれた。
残念なことにプロポーズではなかったようで、それプロポーズ?という私の質問に彼はソファから滑り落ち、両手を慌ただしく振って照れと否定をしてみせた。


来年は二人で一緒に作ろうね。
そんな約束をして。
きっと今と変わらず過ごしていると、お互いに信じて疑わない。
二年間ありがとう。そしてこれからもよろしく。





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