高校入学試験が終わった。
出来は上々、だと思う。
自信のない個所は確かにあるが空欄は一つもない。
とりあえず後は結果待ちだ。
本命はこの学校だが、他にも受験しているのでそちらも気になるところだ。
なに一つ確かなことがない。
高校だって入学出来るかどうかあやしい。
妙な焦燥感に駆られていて気を緩めれば涙が出そうだ。
知り合いなど一人もいない試験会場を歩く。
人の波が去るのを待っていた為、すでに人はまばらだ。
気が弱っている。
別に落ちたわけでもないが、受かっているか落ちているのか分からないのも堪える。
ふいに浮かんだ顔に思わず苦笑してしまう。
なんでミチルなんだ。
なぜ彼が浮かんだのかなどもう今は分かりきっている。
最初は本当に腹立たしかった。
受け入れたくない、そんなはずない。
そう思っていた。
私が彼を想っているから、彼が浮かぶのだと。
今は素直にこう言える。
彼に会いたい。
試験会場を出て校門を目指す。
ふと視界に見知った顔が見えた。
が、そんなはずはない。
ここは神奈川で、彼は東京の銀華中にいるはずだ。
今ごろ堂本達と楽しく過ごしているだろうか。
それにしても会いたくて幻覚を見るなど、私も末期だ。
ミチル病とでも名付けようか。
あ、なんとなく実際にありそう。
ミチル本人に言ったらどんな顔をするだろうか。
呆れるかな、笑ってくれるかな。
「なに無視してんの!?」
とうとう幻聴まで聞こえてきた。
本当に病気じゃないだろうか。
帰りに行きつけの耳鼻科へ寄って帰ろうか。
これは笑っていられない。
「ちょっと!」
肩に手が置かれた。
振り返った先にはミチル。
周りはブレザーばかりだというのに、我が校の学ランは浮いている。
いやいや、これは幻覚だ。
本当にやばいんじゃないか、私。幻覚のミチル。しかもめちゃくちゃリアル。
揺れる髪とか、僅かに香る匂いとか。
ミチルそのものだ。
「洋子?」
疑問形を示すときの語尾の上げ方、私の名前を呼ぶときの柔らかい音。
リアル過ぎる。
なにも考えずに私は右手を振りかぶった。
そしてそれを振り下す。
ミチルの顔面に向かって。
「いったぁああああああああああああ!」
「え」
確かな手ごたえ。耳を裂く絶叫。
周りの視線が一気に集まる。好奇の目だ。
しかし、それを気にする余裕はなく、私の気は一気に動転した。
「え、え、えぇっ!」
「なにすんだよ!」
「え、ホンモノ!?」
「当たり前だろ!なんだと思ったの!?」
「げ、幻覚だと思った…」
信じられない!とかプンスカ怒っているのは間違いなくミチルのようだ。
私が引っ叩いた頬が赤くなっている。
それほど力を入れていないのが幸いしたのかミチルは痛がっているが見た目はそれほどでもない。
「っていうか、そっちこそなんでここにいるの?」
ここがどこだかわかっているのだろうか。神奈川県だ。
東京ではない。神奈川県だ。
再三いうが神奈川県なのである。
「迎えに来てやったんだよ」
「え、なにそれ!そんな必要ないし!」
嬉しさで緩んでしまう頬を締め直して私の口はそんな言葉を吐いた。
もっと可愛い反応がしたいものだが、今更私とミチルの関係は変えられない。
良い方にも、悪い方にも。
「せっかく来てやったのに、この仕打ちかよ。ったく来なけりゃよかった」
「ご、ごめん。本当に幻覚だと思ったんだもん。許して」
「ゆるさない」
やけにはっきり発音されたそれにはふざけの色が見えた。
どうやら怒っているには怒っているようだが、心底怒っているわけではないようだ。
「ホントにごめんね」
「嫌」
「なんでもするからぁ〜」
私が苦し紛れにそう言った瞬間。
ピクリとミチルが反応する。
「ホントに?」
「え」
「ホントになんでもする?」
早まっただろうか。
こいつのことだ、なにを請求してくるか分かったものじゃない。
「やっぱり、撤回し…」
「今受理されました。もう撤回出来ませーん」
「ちょっと!“ホントに?”って確かめた後、返事してないよ!」
「時間切れですー」
むかつく口調でミチルは私に逃げ場がないことを告げた。
これは腹を括るしかないようだ。
数秒前の自分を呪った。
私達を見ていたギャラリーはいつの間にか散っている。
ここ立海ではそう珍しくない光景なのかも知れない。
不思議なことが多そうだ。
私も試験前に不思議なものを見た。
右に行った人がすぐ左から出て来たのだ。
あれはまさにイリュージョン。
私が大口を開けていると、その人は私を見てフッと笑った。
だからきっと、女子生徒がいきなり男子生徒の頬を殴っても普通なのだろう。
「うーん。なにしてもらおうかなぁ〜」
楽しそうにそんなことを呟きながらミチルが校門の方へ歩く。
そんな彼を慌てて追いかけた。
「あ、あんまり変なことはやめてよ?一応拒否権はあるんだからね」
「えー、そんなの面白くない」
「面白くなくても拒否権くらいちょうだいよー!」
いやに上機嫌なミチルと嬉しさを胸の内に隠した私達を乗せて電車は私達の地元に着いた。
電車を降りれば、冷えた風が私の頬を撫ぜる。
気になってミチルの頬を盗み見たが、すっかり赤みは引いている。
本当に良かった。ミチルなら責任を取れ、とか言い出しかねない。
まぁ、責任が結婚ならば、喜んでするのだが。
「そうだ、洋子」
「ん?」
「今日さー、俺さー」
上機嫌だったミチルが更に上機嫌になる。
よっぽど嬉しいことがあったと見受けられる。
「告白されちゃった」
ミチルは語尾に星でも付いていそうな茶目っけたっぷりにそう言った。
対する私は、鈍器で頭を横殴りされたようなショックを受けて表情を作れなくなる。
が、慌てて笑みを繕った。そうしないと不自然だ。
「へ、へぇー。奇特な人もいたもんだねぇー」
声が、震えている気がする。
どうか気付かないで。今はミチルの頭の良さが恨めしい。
「隣のクラスの子でぇー、まぁ、それなりに可愛かったかなー」
「ふーん」
適当に返事を返して隣のクラスから目星を付け始める。
そう言えば一人、ミチルに話しかけようと頑張っている子を見たことがある。
ミチルと話しているときのその子の笑みが幸せいっぱいだったことも思い出す。
きっとあの子だ。
「“ふーん”ってそれだけかよ」
「うん。他にコメントのしようがない」
「コメントはなくったって、聞くことはあるでしょ?」
「自分で勝手に喋れば?」
「なんだよ。なに怒ってるんだよ」
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただの自慢話だから呆れてるの」
違う。本当は機嫌が悪い。
私の方がミチルの近くにいたのに。
私の方がミチルのこと好きなのに。
先を越された。
そう思えてならない。
しかし、ここで会話を切るわけにはいかない。
ここで切ってしまえばミチルが不振に思う。
「仕方がないから聞くけど、どうなったの?」
聞きたくない。言ってほしくない。
でも、ミチルに断る理由はない。
きっとあの子とミチルは…。
「振った」
「はぁ?」
本当に、心底呆れてしまった。
意味が分からない。
なぜ、あの子を振ったのか理解出来ない。
「振った?ミチルが?振られた、じゃなくて?」
「何言ってんの?告白されたの俺だよ?」
「ミチルが振るとかミスマッチだわ…」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
言葉とは裏腹に私の心は一気に晴れた。
そっか。付き合わなかったんだ。
なんか安心した。
しかし、これでうかうかしてられなくなった。
私以外にもミチルに気を寄せる人がいることが証明されたのだ。
「なんで振ったわけ?」
「いやぁ…」
そう言ったきり、ミチルは黙り込む。
言おうか言うまいか悩んでいる様子だ。
「俺さ、好きな人いるみたいなんだ」
本日二回目のショック。
ミチルの言い方がまるで他人事のだったがそれにも気付かないほどショックを受けていた。
「そんなの全然気がつかなかった」
「俺も」
「は?」
「今日聞き返すの多くないか?」
いや、今のは聞き返すなという方が無理だろう。
「えーっと、どういうこと?」
「告白されて気付いたんだよな、自分に好きな人がいるんだって」
「へぇ〜」
時折そういったことがある、とは風の噂で聞いたがまさか身近にそんな人間が現れるとは思わなかった。
「告白、するの?その人に」
私の胸が不安でドキドキしていた。
もし、ミチルがその人に告白するつもりなら私はどうするだろう。
応援するか、それともミチルの失恋を祈るのか。
祝うのか呪うのか。
「告白か…しよう、とは思ってる」
「そ、そう」
「高校、地元じゃないらしいし」
「ふーん…」
私と同じか。
いや、まだ神奈川の学校に通うと決まったわけではないけど。
同じ境遇でミチルに好かれるのと違うのとではどれだけ違いがあるんだろうか。
きっと今後、思い知ることになるのだろうけど。
「頑張ってね」
「あ、あぁ」
とても複雑な気持ちだ。
ミチルを幸せにしたり、笑顔にするのは私であってほしかった。
すっかり忘れていたあの不安、進学に対する不安が大きな波となって一気に押し寄せている。
また気持ちを引き締めなければならなくなった。
緩めれば、視界が滲む。
「なぁ」
「ん」
「洋子、なんでもするって言ったよな?」
この男は、空気を読むとか出来ないのか。
こっちはあんたのせいでセンチメンタルな気持ちなのに。
忘れていることを祈って私は嘘をつくことにした。
「…………言ってない」
「嘘つくんじゃねぇよ」
「忘れてくれてもいいよ」
「忘れるもんか」
覚えているなら最初から疑問形にしなければいいのに。
「決まったの?私にして欲しいこと」
「あぁ」
これが告白の手伝いとかだったら嫌だな。
拒否権、なんて言っといて使わないつもりだったけど、それだけは拒否しよう。
そんなの辛すぎる。
「ちょっと目、閉じて」
「…それだけ?」
なんだ、手品でもするのか?
「いいから早くしろよな」
「なんでそんな上から目線なの?」
「お前が俺の顔を引っ叩いたから」
「その件に関しましては本当にすみませんでした」
「謝罪はいいから言うこと聞けよ」
偉そうなミチルにほんのちょっとドキっとしたけど、己のマゾっ気の分析などより先に言うことを聞いてやろう。
私は大人しく両の瞼を閉じた。
いくら目を閉じたからと言っても目隠しをしているわけではない。
なにかが近付けば分かるし、耳も聞こえる。
「見えてないか?」
そう言ってミチルが私の前で手を振っているようだ。
「本当に見えてないから確かめなくてもいいよ」
「なっ!見えてるじゃねぇか!」
「見えてない。音で分かるの」
「仙人?」
「アホなこと言ってないでさっさと終わらして」
もし目を瞑っている間に帰ったりしやがったらただじゃおかないんだから。
「本当に見えてないよな?」
しつこいくらいにミチルは私が見えていないがどうか確かめる。
「本当に見えてないから」
「そうか…」
それっきりミチルは黙る。
目の前にいるのはいるようだが、目を閉じた私を観察しているようだ。
見えはしないが正面から痛いほどの視線を感じている。
ミチル、そう言おうとして僅かに口を開いた。
そこに押し付けられたのは柔らかいなにか。左肩に僅かな圧迫感。視界が暗い。
突然のことで目も開けられず、言葉も発せられず、動けなかった。
ちゅっと軽く音を立て私の唇を吸うと、そのなにかは私から離れた。
同時に左肩の圧迫感もなくなる。
目を開ければ、ミチルは私に背を向けていた。
今のは、どう考えたって一つしかない。
「キス…?」
私が小さく呟くと、ミチルの肩がビクリと跳ねる。
嬉しい、嬉しいのは嬉しい。
だって好きな人からキスされた。
嬉しいことには違いないけど理由が分からない。
もし練習台だったら悲しいけど、ミチルがそんな人ではないと知っているから。
全ての点が糸で繋がっただけだ。
「ミーチール」
「な、なんだよ」
「ミチルー?」
「聞こえてるよっ!」
声が上ずっている。恥ずかしいのだろう。
先ほどまで迫っていた不安の波はすっかり消え失せていた。
「ミチルの好きな人ってー」
あえて意地悪にそこで区切った。
どうしても本人の口から言わせたい。
「そ、そうだよ」
「ぜーんぜん分からないんだけどー」
「分かってて言ってるだろっ」
「誰誰ー?」
「お、お前だよ!悪いか!」
その言葉で私の胸は騒ぎだす。
思わず目の前の背中に抱きついた。
「おぉ!!!な、なんだよ!」
「両想いだなんて知らなかったなー」
「へ?」
ミチルが素っ頓狂な声を上げて行動を停止させる。
私の顔を見ようと体を右へ左へ捻じっているが、私が彼の背中にぴったりとくっついている為に見えないようだ。
「今日神奈川で引っ叩いたのはね」
「あ、あぁ」
「ミチルに会いたいって思ってたからなんだよ」
「会いたかったら殴るの?」
「違う違う。本当に幻覚だと思ったの。会いたいから幻覚見たんだーって」
「な、なんだよそれぇ〜」
ふにゃふにゃとミチルの体から力が抜けていく。
「なに?お前、俺のこと好きだったの?」
「うん」
「全然知らなかったわ…」
「バレないようにしてたからね」
ミチルの背中から離れようとすると片方の腕を掴まれる。
そのまま手を繋がれて横並び。
半ば手を引かれて私は歩き出した。
「そういや、手なんて繋いだことなかったな」
「え、何言ってんの。繋いだよ、夏祭りの時」
「…そうだっけ?」
「はぐれるからって手繋いでくれたのミチルじゃん」
「全然覚えてないわぁ〜」
そう言う語尾が震えている。
こういうときは決まって嘘だ。
「……覚えてて言ってるでしょ」
「…………うん」
私が覚えているかどうか確かめるミチルが健気に思えてならない。
覚えているのは当然だ。
その頃、すでに私は自分の気持ちに気付いていた。
ミチルに告白したという女の子。
私はその子に感謝しなければならない。
その子が告白してくれなければミチルが私を好きだと思うことはなく。
私とミチルはこの先もきっと以前の様な微妙な関係で。
私はずっと片想いだっただろうから。
どの高校に入学出来るかは分からない。
それでも私の心が穏やかでいられるのはミチルのお陰だ。
どの高校に入ってもミチルが側にいてくれる。
時折とてつもなく頼りないけれど、それでも私はミチルを嫌いになることはない。
繋いだ手をこれからも離すことがないようにしっかりと握った。