玄関を開けて家に入ると夕ご飯の匂いが鼻孔をくすぐる。
学校帰りというのはお腹が空くもので、今日も夕ご飯のことを考えながら帰宅した。


「ただいまぁ」


「おかえりー」


テーブルの上には土鍋が置かれている。
今日はお鍋かー。と思ったが、母の方を見て疑問が浮かぶ。
そこでは別のおかずが作られている最中だったのだ。


「お母さん」


「なに?」


「なんか今日豪勢だね。いいことあった?」


鍋以外にもおかずを作るなんて、珍しい。
私の高校入学より豪華な気がする…。
よほどいいことがあったとしか思えない。


「なにもないわよ。はい出来た」


あっさりそう言うと母は鍋の隣に野菜の入ったボールを置く。
冷蔵庫から薄切りの豚肉二パック。
そこから察するにどうやらしゃぶしゃぶのようだ。


「なんかやましいことでもあるの…?」


「バカなこと言ってないで…ほら、あんたこれ持ってお隣行ってきなさい」


お隣というのは間違いなく十歩足らずで行ける藤田家だろう。
しかし、なぜ鍋セットを持って藤田家に行かねばならないのだろうか。


「今日、恵くん一人なんだって」


私の心を察したのか母が言う。
聞けば、次男の昌ちゃんは合宿、三男の忍ちゃんは遠方で大会。
おばさんは小学生だからということも相まって三男の大会に付いて行ってしまい、おじさんは出張中なので、必然的に恵ちゃんが一人になるようだ。


「いくら高校生でも男の子でしょ。まともにご飯作れないだろうからね」


確かに、おばさんから恵ちゃんが料理をしたなんて話は聞いたことがない。
更に恵ちゃんのエプロン姿なんて想像出来ない。


「でもなんで私が…」


「どうせあんた暇でしょ」


「い、忙しいよぉ?」


「勉強もしないんだからいいじゃない」


「宿題があるし」


「五分も掛からないおつかいに何言ってるのよ」


勉強以外の用事だと全て暇だと解釈されそうな勢いである。
どうやって言い返そうか考えているとチャイムが鳴った。


「出て来て」


包丁を持った母が言って笑う。
脅しに見えるのは気のせいだろうか。
ここは大人しく従っておくのがよさそうだ。
玄関に降りた私は扉を開ける。


「…はーい。…って恵ちゃん」


「洋子」


そこにはお隣の恵ちゃんが立っていた。


「どうしたの?」


「どうしたって、呼ばれたんだよ」


「お母さんに?」


「あぁ」


「あら、恵くん」


母が鍋を持って現れる。
母の姿を見止めて恵ちゃんが頭を下げた。


「どうも」


「待ってたのよ。はいこれ」


そう言って母は恵ちゃんに鍋を押し付ける。
そして私の方に向き直ると、


「洋子、あんたボールとお肉取って来て」


恵ちゃんに鍋を持たせたところからみて、ボールとは先ほど野菜を盛っていたあのボールだろう。


「分かった」


キッチンまで戻ってボールを持つ。
玄関から恵ちゃんが遠慮の言葉を母に言い、母がそれを拒否している声がする。
恵くんのお母さんにも頼まれてるから、としつこい母にとうとう恵ちゃんは折れたようだ。
その会話を耳に入れながら、ボール端にお肉のパックを置いて持った私はそこを後にする。


「持ってきたよー」


「じゃあ、あんたそれ持って恵くんち行ってきな」


「えっ!」


「ちゃんと運びやすいように持ってるじゃない。ちょうどいいから、ほら」


背中を軽く小突かれる。
恵ちゃんを見ればなんとも言えない顔をしていた。


「恵くんに持たせるつもり?」


私の視線に気付いた母が低くした声で言う。


「…持って行けばいいんでしょ」


恵ちゃんは両手で土鍋を持っているのでこれ以上持つことは出来ない。
私が持って行くしかなさそうだ。


「素直でよろしい。そのまま恵くんと食べてきてもいいけど」


「いいです。帰ってきます」


素早く返すと母が肩を竦めた。
適当な履物を履いて玄関を出る。


「じゃあ、すいません。御馳走になります」


「いいのよ、大したものじゃないしね」


「行こう、恵ちゃん」


ニコニコと愛想を振りまく母を横目で見て恵ちゃんを促す。
恵ちゃんのお辞儀を見届けた母が扉を閉める。


「今日誰もいないんだって?」


「あぁ」


「寂しい?」


「まさか。静かでせいせいする」


当然、彼から寂しいなどという返事があるとは思っていない。
それだけの会話を交わしただけで藤田家に着くのはそれだけ近いから。


「あ」


「どうした?」


あることに気付いてしまった私が足を止めると恵ちゃんが不思議そうな顔でこちらを見る。
恵ちゃんの両手を確認して、自分の両手を見る。
どちらも手一杯だ。


「…どうやって玄関開けよう…」


二人とも手が塞がっているのなら、ここまで母に来てもらえばよかったと少し後悔した。
開ける方法がないわけではない。
が、その為には女の子としてあるまじきことをしなければいけないわけだが。
さて…。


「恵ちゃん」


「なんだ」


「ドア開けていい?」


「構わんが、開けれるのか?」


「うん。開けれないことはない、かな…鍵開いてるんだよね?」


「あぁ。そっからそこまでだからな」


「じゃあ大丈夫」


まぁ、考えてみればずっとお隣さんとして過ごしてきたんだから今更変に気を遣わなくてもいいだろう。
本人に許可も取ったことだし、と私は軽く足を上げると玄関の桟にそれを掛ける。
そして力を加えた。
人一人入れるくらいの隙間が出来た。
今度はそこに体を入れて体全体で押す。
こうして私は藤田家の玄関を開けたのだった。


「女とは思えん開け方だな…」


勝手に玄関へ入った私を玄関の向こうで見ていた恵ちゃんが呟く。
その声は呆れそのもの。


「いや、今更おしとやかにしても意味ないかなーと思って」


「……今更おしとやかにされたら悪い物でも食べたのか疑うがな」


「やってみようか?惚れるかもよ?」


「バカが」


悪態を吐いた恵ちゃんが玄関に上がる。
私は適当な場所にボールを置いて今度は手で玄関を閉める。
そうしている間に恵ちゃんはキッチンへ向かってしまったので、再びボールを手に追いかけた。


「あれ?コンロがある」


食卓の上にカセットコンロ。
今用意したわけではないらしい。
その上に恵ちゃんが土鍋を置いた。


「帰ってきたらすでに置いてあった」


「ということは、最初から決まってたんだね…」


食卓にボールを置いてカセットコンロを点けてみる。
何度かやり直してようやく点いた。
恵ちゃんはキッチンに移動していて、箸やタレを入れる小鉢を用意している。
その後ろ姿がどこか寂しそうに見えた。


いつもなら隣にはおばさんがいて、昌ちゃんがいて、きっと恵ちゃんと昌ちゃんが二人同時に冷蔵庫覗いて頭ぶつけて喧嘩になって、それを忍ちゃんが呆れた顔で見てるんだろうな。
笑い声がなくてもそれはきっと楽しい空間なんだ。
しまいには恵ちゃんと昌ちゃんはおばさんに頭を叩かれて、忍ちゃんが一言漏らして、今度は二人して忍ちゃんを攻撃するんだろう。


そんなことを考えていたら、悲しくなってしまった。
脳内ではたくさんの声が溢れているのに現実では酷く静かだ。
きっとおばさんは明日には帰ってくる。
そうしたらいつもの日常だ。でも、やっぱり、静まりかえった今日の藤田家は寂しいと思う。


「わっ!」


驚いた声に顔を上げると、食器と箸を持った恵ちゃんが私を見てギョッとしていた。


「な、どうした!?なんで泣いてるんだ!」


「え?」


瞬きをすると一粒零れる。
いつの間にか視界が滲んでいる。


「いや、別になにもないんだけど…」


袖口で目元を擦って言った。


「じゃあなんで泣く!?」


恵ちゃんが取り乱している。
珍しいこともあるもんだ。
その様子がおかしくて笑ってしまった。


「わ、笑ったり泣いたりおかしなやつだな…」


「ごめんごめん。…ちょっと電話借りてもいい?」


「あ、あぁ構わない」


電話に近寄ると私はよく知った番号へ掛ける。
自分の家だ。


「あ、お母さん?」


家にはまだ私と母しかいなかった。
当然出るのは母だ。


「今日のご飯なに?」


母から伝えられたおかずと鍋を脳内で天秤に掛ける。
鍋の方には恵ちゃんも。
そうすると重くなったのは鍋だった。


「あのね、やっぱり恵ちゃんとご飯食べて帰る」


「えっ」


後ろで恵ちゃんが驚いているようだが今は無視することにした。
電話の向こうで母が笑う。


「なっ!そんなんじゃないよ!」


笑った母が言ってのけた言葉を私は全力で否定した。
「恵くんのことそんなに好きなんだ」、母はそう言ったのだ。
確かに好きは好きだ。
嫌いな人だったら一緒にご飯どころかボールを運ぶのだってもっと嫌がってる。
それでもその好きは異性としてではない。
お隣さんとしての恵ちゃんが好きなだけだ。
いわば友情一つ。愛情ではない。


「とりあえず、そういうことだから!じゃ!」


電話の向こうで「隠さなくてもいいのよ」なんていう母をこれ以上相手にしても埒が明かないので一方的に電話を切った。
帰ったら帰ったでごちゃごちゃと聞かれそうだ。頭が痛い。
考えるのはやめよう。頭を振って私は振り返った。






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