「ちょっと、洋子ー?」
「なに?」
「これ」
そう言って手渡されたのは回覧板。
どこどこで変質者が出たとか、地区行事の日程とかが書かれているものだ。
「お隣に届けてきて」
「……えー…」
「なに言ってんのよ。すぐ隣じゃない。五分もかからないわよ」
「お母さんが行けばいいのに」
「お母さんはご飯の支度で忙しいの。ほら早く!じゃないとあんた、ご飯抜きよ」
狙ったようにお腹が音を立てる。
しぶしぶテレビの前を離れて玄関へ向かう。
適当に目を通してみたが私に必要な情報はなに一つ載っていない。
サンダルを履いて玄関を出た私は家の門を出る。
左に曲がって十歩足らず。
到着したのはお隣の藤田家。
この家にはここらじゃ有名な三兄弟がいて、上から恵、昌、忍という女の子みたいな名前を持っている。
喧嘩する声や騒音は日常茶飯事。
数日前もおばさんが兄弟を家から追い出している声が聞こえた。
「あれ?洋子ネェちゃん」
勝手に門を開けたとき、玄関から男の子が顔を出す。
三男の忍だった。
「やっほー」
「なにか用?母ちゃんなら出てていないけど」
そう言いながら靴の先で地面を叩いている。
私のところまで来て見上げる姿に違和感を覚えた。
「忍ちゃん、また背伸びた?」
数か月前にはもう少し見下ろしていたはずだ。
それがほとんど見下げなくてよくなっている。
彼は、私の言葉にむっとした表情を見せた。
「伸びたよ。それより、洋子ネェちゃん、その呼び方やめてよ」
「なんで?」
「女みたいじゃん」
「事実、女みたいな名前なんだからいいじゃない」
それにこの呼び方は彼が産まれてからのものだ。
今更変えられない。
「じゃあ、それで呼んでもいいけど人前ではやめてよね」
「うん。分かった」
そうは言ってもご近所さんには私が彼を“ちゃん”付けすると知られているはずだ。
ご近所さん以外の人前など限られてくる。
「あ、忍ちゃん。これ、回覧板。おばさんに渡しといて」
「え、やだよ。オレ、今からロードワークしてくるんだから」
「なに言ってんの。そっからそこまでじゃん、家」
ここはすでに藤田家の敷地内。
石畳を行けば玄関である。
「それ言うなら洋子ネェちゃんもじゃん」
「うっ…確かに…」
「元々そのつもりだったんだろ?兄ちゃんいるから渡しといてよ」
「しょうがないなー。気をつけてね」
「うん。いってきます」
「知らない人に付いて行っちゃダメよー!」
「行かないよ!」
忍ちゃんを見送った私は石畳を歩く。
辿り着いた玄関で彼の成長に関心しながら呼び鈴を鳴らした。
それにしても、庭先に鉄アレイが落ちている家はここぐらいだろうな。
なかなか出てくる気配がない。
もう一度呼び鈴を鳴らして私は鉄アレイに近寄った。
片手で回覧板、片手で鉄アレイを持つ。
持てない重さではないようだ。
適当に持ち上げてみた。
何度か繰り返すと腕が疲れてくる。
ふと、重い鉄アレイを振り回したら遠心力もすごいのではないかと思った。
勢いをつけて回してみると思った通りすごい力で腕を外側へ引っ張られる。
「なにしてるんだ?」
物凄く怪訝そうな声が背後から聞こえた。
振り返ってみると、思いっきり変なものを見る目でこちらを見る恵ちゃん。
「いやぁ、遠心力の調査中?」
「研究テーマかなにかでか?」
「ううん。個人的な調査」
恵ちゃんはそれ以上なにも言わない。
私の腕はまだ回ったまま。
「で、いつまで続けるんだ?」
「それがねー、止まらないの」
止まらない、というより止め時が分からない。
突然止めたらひじがおかしくなりそうな気がするし、かといってこのまま回し続けているわけにはいかない。
どうしようかと本気で悩み始めたとき。
「あっ…」
恵ちゃんの手が私の持っていた鉄アレイを掴む。
ちょうど位置は頭上で、振りまわしていた鉄アレイを塞き止めるようにして止めた。
「あ、ありがとう」
「ったく、無計画に振りまわすからだ」
「…恵ちゃんも身長伸びた?」
同い年、お隣さん、ということで私と恵ちゃんは小さな頃、よく一緒に遊んでいた。
といっても、彼が柔道を始めてからはときどき見かけたりするくらいになってしまったが。
それでもお隣さん。ずっと隣に住んでいるのだから見掛けないわけはない。
しかし、彼とこうして並んだのはいつ以来だろうか。
ほとんど思い出せない。
恵ちゃんは、忍ちゃんと同じ様な顔をして私を見た。
「そりゃ、伸びたよ。それより、その呼び方…」
「やめろって?それは無理」
兄弟揃って同じ台詞を言う。
これなら昌ちゃんも言うだろうな。
「まぁ、どうせ近所の人は知ってるからいいけど。他の奴らの前では絶対にそれで呼ぶなよ?」
「はいはい。忍ちゃんと同じこと言うのね」
「ん?じゃあ、忍にも聞いたのか、身長」
「うん。大きくなったね、忍ちゃん」
「小学生だからな。まだまだ伸びるさ」
「ふーん。私なんて止まっちゃったけど」
私の身長は高校入学と同時に止まった。
「体重も止まればいいのにね…」
「太ったのか?」
「女の子にそんなこと聞くなんてデリカシーなさすぎだよ、恵ちゃん!」
「わ、悪い…。まぁ、別に太ってるとは思わないけどな」
「太ってるように見えなくても見えないところに脂肪がつ…」
そこまで言って止める。
健全な男子高校生に向ける言葉ではない気がする。
というか、こっちが恥ずかしい。
「どうした?」
なにも気付いていないらしく恵ちゃんは不思議そうな顔で私を見ている。
「いい。やっぱり聞かなかったことにして」
「?変なやつ」
恵ちゃんが鈍くて助かった。
邪推されそうなことを言ってしまった。
「それで、なにか用なのか?」
そうだった。
当初の目的をすっかり忘れていた私は未だ片手に握られたままのそれを恵ちゃんに突き出す。
「はい、回覧板。おばさんに渡しといて」
「あぁ、分かった。でも、忍に会ったんだろ?あいつに渡せばよかったのに」
「渡したよ。渡したけど“兄ちゃんに渡せ”って言われちゃった」
「あのバカ…」
「まぁまぁ。頑張ってるんだし、いいじゃん」
「そうだけど…」
「それに、忍ちゃんのお陰で久々に恵ちゃんと話せたしね」
恵ちゃんとこうして話した最後はまだお互いが中学生の頃だったと思う。
「おかえり」とか「おはよう」とかの挨拶はあっても会話はなかった。
その時、思い出したようにお腹が食べ物を催促する。
「あ、そろそろ帰らなきゃ」
「………腹が鳴るのが合図なのか?」
「そういうわけじゃないけど、そろそろご飯の時間だから。じゃあね!」
「あ、あぁ」
私が片手を上げるとそれと同じように恵ちゃんも返してくれる。
そんなことが嬉しくて私は笑顔で藤田家を後にした。
「………久々に話せたし、か。どういう意味だ?」
恵ちゃんの呟きは当然私の耳には届かない。
藤田家を出て右に曲がる。
そこから十歩足らず。
そこが私の家。