昔を思い出して笑う。
“思い出し笑い”なんて絶対怪訝な顔されるな、なんて思ってたら本当に横で彼はそんな顔をしていた。
「なにが面白いんだ?」
「なんでもないよ」
まだ笑いが収まらない。
むしろ予想通りの表情をしていた彼のせいで尚更可笑しい。
半笑いで返した返事は彼の表情を更に深くする。
「大したことじゃないから気にしないで」
「気にするな、と言われてもな…」
「出逢ったときのこと思い出してただけ」
普段は柔道に時間をかけている彼が僅かな合間を私に割いてくれるのが単純に嬉しい。
高校時代からそうだったが今もその嬉しさは薄れない。
そういう辺り、自分で燃費がいいと思う。
「出逢ったときか」
「どうせ覚えてないんでしょ?」
「……………悪い」
「いいよ、別に。期待してないし」
出逢ったとき、というより顔を合わせたときだが、私から見れば彼は“藤田恵”以外の何者でもなかったが、彼から見れば私は浜高の斉藤と仲がいい三工の生徒だったはずだ。
それからしばらくは平行線。
知らない女生徒から関谷の知り合いの女子くらいにはなれただろうが、こういう関係になろうと誰が予想出来ただろうか。
「そういえば、調子はどう?」
「なんのだ?」
「もちろん、柔道」
「順調だ」
そう即答するであろうことは分かっていた。
交際期間二年。その間、この男から弱音を聞いたことがない。
本人が言わないようにしているのか、それとも元々人に弱みを見せない人間なのか。
十中八九、後者だろう。
「なら良かった」
「粉川には負けられん」
その名前を口にした瞬間、口がへの字に曲がったのを見逃さなかった。
それと同時に目に真剣さが増す。
今日来る合同練習相手とはまさにその粉川くん達らしいから、真剣になって当然というものだ。
「…あ、そろそろ時間じゃない?」
「…もうそんな時間か」
「うん。月並みなことしか言えないけど、練習頑張ってね」
「あぁ、ありがとう」
付き合っているといっても実態は結構あっさりしたもので、こうして軽く挨拶をして別れることが多い。
だから今回も特別なにか思ったわけでもない。
それでも、たまにもうちょっと恋人同士らしい別れ方をしてみたいとも思う。
それがどんなものか想像つかないけど。
帰ろうかどうしようか迷って結局校舎周りをうろうろしていた。
合同練習、見に行くって言えばよかった。
そういえば、練習してるところってあんまり見たことないな。
あんまり見せたくもないみたいだけど、きっと今回は試合形式で行われるだろう。
ならば、見に行ってもいいのではないだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「あの、すみません」
自分に掛けられたものだとすぐに気が付いた。
なにせここは人気が少ない。私以外に人がいないのだ。
声の方を向くと男の人が眉を下げていた。
どうやら困っているようだ。
「柔道場がどこか知ってます?」
すぐに合同練習の相手だと分かった。
この大学の柔道部員なら道場の場所が分からないこと自体がありえない。
更に普通の生徒が柔道場に用事があるとは思えない。
となるとその答えしか弾き出されない、というわけだ。
私が案内を申し出るとその人は長谷と名乗った。
彼氏が柔道部員だからと言ってその彼女である私がそれに詳しい、ということはなく。
名乗られたところで彼が何者か分かるはずはなかった。
きっともう関わることもない。
長谷くんを連れて道場へ向かう。
突然現れた私を彼はどう思うだろうか。
「木村さんが道場知っててよかったー!」
「この学校の生徒ならほとんど知ってると思うんですけど」
「いやいや、さっきから“知らない”とか“急いでるんで”とかばっかりでさー」
「あぁ…」
それはきっと面倒だったからだろう。
私とてなにか予定が入っていれば彼を案内することもなかった。
ただ、ちょうど道場へ行こうか迷っていたところだったし、本当にタイミングが良かっただけだ。
それでも彼にとっては関係ないらしく、隣で鼻歌なんて歌っている。
「木村さんは優しいね」
「…普通だと思います」
「いやいや、見ず知らずの俺を案内してくれるんだもん」
「たまたま知り合いが柔道部なんです」
彼氏を知り合いだというのは変な感じがしたが、下手に突っ込まれるのは避けたかった。
きっと彼はこれからも恵と関わり続けるだろう。
双方が柔道を続ける限りその可能性はゼロにはならない。
「へー!なんて人?」
…よく考えたら、というかよく考えなくてもこの質問がくることは予想出来たはずだ。
誰か、などと聞かれたら答えないわけにはいかない。が、答えたくない。
どうするべきか…。
「えーっと、秘密です」
「え?なんで?」
「なんとなく」
長谷さんは納得できないようだったが、それ以上追及してくる様子はない。
幸い道場はもうすぐだ。やはり、彼を案内したら帰ろう。
そのまま練習を見ていたらきっとこの長谷という人が関わってくる気がする。
「ほら、長谷さん。あれが道場ですよ」
「おお!立派ー!」
道場の入り口はここから反対側にある。
このまま道場に沿って歩いて行けばそこへ辿り着けるはずだ。
そこまで送って私は帰ろう。入り口まで送ればいいだろう。
恵に挨拶の一つもするべきか考えたがさきほどそれは済ませてしまったし必要ないだろう。
そう思って角を曲がったときだった。
「あ、長谷くん!」
「いやー迷っちゃたよ!」
まさか、こんなところで会うとは思っていなかった。
だって、ここは道場前だ。普通、中にいると思うだろう。
粉川くんと睨みあいをしていた恵の目が私を見て丸くなる。
そりゃそうだ。だって、私は数十分前に帰ったはずだ。
もとより私もそのつもりだったのだが…。
それがここにいるのだから彼が驚いても不思議はない。
どうしようか迷った。
長谷さんには知り合いが柔道部にいると言ってしまったし、本人が知らない内に練習を見学出来るのが一番良かったのだが、すでに姿は見られてしまった。
さて、どうしようか。
「あ、木村さんだ!」
よし帰ろうと足を引いた瞬間、粉川くんが声を掛けてきた。
彼とは浩司の紹介で会って以来、少し話すくらいだ。
特別仲がいいわけでもなんでもない。
それでも名前を呼ばれて無視するわけにはいかない。
更に彼は私と恵の関係を浩司から聞いているはずだ。
もし私が彼を無視して帰ったら恵がなにか言われるだろう。
諦めた私は彼らに近付く。
「久しぶり、粉川くん」
「久しぶり。練習見てかないの?」
「うん。帰るよ」
「見てけばいいのに」
「いいよ。邪魔しちゃ悪いし」
「邪魔じゃないよ。なぁ藤田」
ニヤリと笑った粉川くんが恵に話を振る。
「…あぁ」
一瞬面喰って、恵が答える。
「ほらね」
「んー、でもいいや」
「そう?まぁ、無理にとは言わないけど」
「うん、ありがとう。じゃあね」
「またね」
粉川くんと別れの挨拶を済ませた私はちらりと恵を見た。
彼はなんだか複雑な顔をしていたが、色々な感情が渦巻いているのだろう。
そってしておこう。
踵を返して歩き始めると後ろから呼び止められる。
「木村さん!」
長谷さんだった。
「ここまで案内してくれてありがとう!」
「いえ」
「粉川と知り合いだったんだ」
「そうですね。友人の友人って感じですけど」
「粉川って木村さんの連絡先知ってるのかな?」
「…知ってる、と思いますけど?」
「そか。ありがとう!」
そう言うと彼は粉川くんの方へ走って行った。
離れているためなにを言ったのかは分からない。
それほど気にする必要もあるまい。
私は帰路についた。
その夜、粉川くんから連絡があった。
内容は長谷くんが私の連絡先を知りたがってるけど、断ったという話だ。
私の了解を得ずに話が終わっているのだが、それは彼なりに気遣いだと分かる。
きっと、長谷くんの申し出を私に伝えられたところで私は粉川くんがしてくれたように断るだろう。
普段の態度がどうあれ、私には恵がいるのだ。余計な誤解を招くことはしたくない。
「それにしても傑作だったよ」
堪え切れないといった様子で粉川くんが噴き出す。
電話越しからもその様子が見て取るように分かる。
「なにかあったの?」
「藤田だよ、藤田」
「恵?」
「木村さんの帰り際、長谷くんが行っただろ?」
「あぁ、案内したことにお礼言われただけだよ」
「うん。その後、俺のところにきて、木村さん可愛いよね、って言ったんだ」
「ふーん…」
可愛い、と言われたことに少し照れながらそれと恵の関係を考えた。
なにも思い浮かばない。
「そしたら藤田さー。めちゃくちゃキレちゃって」
「は?キレる?」
「そう、大荒れ。乱取りのときに片っぱしから投げてって」
「う、うん」
「あ、俺は投げられなかったけど」
「あーそう」
「あれ?反応薄くない?」
薄いも何も、そんな分かりやすい自慢を聞かされたところでなにも思わないのだから仕方ない。先を促した。
「まぁいいか。特にひどかったのが長谷くんで、かなり本気で投げられてた」
「………それは…ご愁傷様」
「それもこれも木村さんのせいだけどね」
突然出て来た自分の名前に驚く。
「なんで私?」
「なんでって決まってるじゃん。藤田、嫉妬して荒れてたんだから」
「嫉妬?」
「っていうよりあれは、俺の女に手を出すなって感じだったな」
粉川くんに紡がれた言葉に絶句して、一瞬にして熱が顔に集まる。
普段があっさりしているものだから、そういう彼は想像出来ない、
それでも粉川くんが冗談を言っている風はない。
どうやら本当に大変だったらしい。
「本当に木村さんのこと好きなんだなって思ったよ」
「そ、そう」
「照れてる?」
「うるさいな」
照れるなと言う方が無理だ。
恵はそういうのから縁遠いものだと思っていた。
私が好敵手の粉川くんと話していてもそういった様子が見えたことはない。
それもよく考えたら、粉川くんには近藤さんがいるからだと考えられる。
「まぁ、そういうことだから」
「うん。断ってくれてありがとう」
「ううん。あ、長谷くんには木村さんと藤田の関係伝えておいたから」
「え?」
「だって投げられまくった後、長谷くん本当に不思議そうな顔してたし。まぁ二人の関係聞いて納得してたけどね」
「そう」
長谷くんにはなんか悪いことをしてしまった気がする。
軽く挨拶をして粉川くんとの電話を切った私はベッドに寝転がって考えていた。
明日、恵とどうやって顔を合わそう。
あんなことを聞いてしまった後だからいつも通りに接することは難しい。
かといって粉川くんから電話で聞いた、なんてそれだけで怒りのボルテージを上げそうだ。
明日のことを考えた私は頭痛を覚えて思考を手放すことにした。
寝てしまえばなにか思い付くかも知れない。
そう思って瞳を閉じた。なにも思いつかないであろうことを予想しながら。