まるでお湯に潜っているようだ。
暖かい。そして安心する。
それがだんだんと薄れていって名残惜しい。
去っていくものとは対照に今度はなにかが近付いている。
それは女の人の声で。なにかを言っている。
「あ、起きたー」
「本当だ。起きた」
「ロープ、起きたわよ」
「わよー」
目を開けると光る虫が二匹飛んでいた。
しかも喋っている。
慌てて手を出してそれを掴んだ。
一匹は逃がしてしまったが、一匹は捕獲した。
「離してー!」
「なにこれ…?」
がっしり掴んだまま、体を起こす。
薬のおかげかもう頭痛はしない。
「珍しい虫…」
「虫じゃないわよ!」
「あいつらに見せたらどういう反応するかな」
“あいつら”とは同僚のことだ。
きっといい退屈凌ぎになるだろう。
「おい…」
背後からかけられた声に振り向く。
「ロープ、助けてー!」
「野蛮よー!」
「野蛮人よー!」
「失礼な虫…。あなたの?」
「…違う」
「ひどいわ、ロープ!」
「今まで散々お世話してきたのにー!」
「頼んでない」
「やっぱりあなたのなのね」
「だから違う…」
警戒しながら手を開いた。
掴んでいた虫はヒュイっと飛んでいくと男の隣へ行く。
「騎士ってやっぱり野蛮なのかしら?」
「死ぬかと思ったわ」
「大丈夫?」
「あの子、力強いわよ」
「一応騎士だし…」
「…起きたんなら帰れ」
「今何時?」
「五時だ」
「ならもうちょっといる〜」
「早く帰れ」
布団でごろごろし始めた私に男は鋭い視線を向けた。
まぁ、今日一日お世話になったわけだし、これ以上迷惑かけるのも気が引けるのは確かだ。
渋々起き上がって誓剣を差す為のベルトを腰に巻く。
「…素直だな」
「ん?だってこれ以上迷惑かけるのも気が引けるもん」
言いながら誓剣をベルトに差した。
「まぁ、まだここいるけど」
「なぜいる必要がある…」
「まだ酒場賑わってないし」
「…また酒を呑む気か?」
男はそう言って思いっきり嫌そうな顔をする。
その反応に思わず笑ってしまった。
「うそうそ。冗談よ。明日からまた仕事だからね」
次の日が休みでない限り、お酒はたしなむ程度にしか呑まないようにしている。
自分の酒癖の悪さを知っているからだ。
しかも、呑み過ぎない為に、一人では呑まない。
国境にいるときは酒場で会った人と。だが今は都だ。同僚がいる。
その中でもよく一緒に酒を呑む男は酒に強い。
次の日に響かないようにいつも制してくれるのだ。
だから彼と呑むとちょうどいい酔い加減で酒場を後に出来る。
そして次の日は気持ちよく仕事が出来るというわけだ。
「もうちょっとここにいる理由は別よ」
「別?」
「五時半が一応定時だからね」
「定時…騎士か」
「そう。昨日なにがあったのか聞かないと」
「良い心がけだな。そう思うなら今後酒を呑まなければいい」
「それは無理。あれは私のストレス発散法だから」
「それはいいが、せめて人を巻き込まないようにしろ」
「それも無理かなー」
「…懲りてないのか」
「うん。…国境警備なんてやってると色々ねー」
「色々?」
「私達はこの国の平和を望んでる」
この国を守りたい。人々を守りたい。自然を、動物を。
兵士になる理由、騎士になる理由は人それぞれだけど。
人を殺したいわけじゃない。
「それは当然だな」
「うん。でもそうじゃない人もいる」
「どういうことだ?」
「国境辺りには戦争が起こってくれた方が儲かる人間がいるってこと」
「…あぁ、確かにな」
その人たちは自分たちの利益の為にこの国を乱す。
そういう人を捕まえたいと思うものの、彼らは上手く隠れる。
尻尾を捕まえても、また次の尻尾が現れて。
トカゲの尻尾切りだ。
「分かっていても証拠がないから捕まえられなかったりして、もう嫌ー!って」
「やけになるわけか」
「そう」
この間、国境で起こった侵略もどこか様子がおかしかった。
カラッソの方でもなにか揉めているようだし、それが関係しているんだろうとは思っている。
それでもそれを確証する方法があるわけではない。
結局は隣の国の出来事だ。
「国の揉め事の為に犠牲になるのはその境なのにねー…」
「だからお前がいるんだろ?」
「私は力を力で押さえつけることしか出来ないよ」
それは本当の平和じゃない。その場凌ぎだ。
ゼス閣下が大将軍になってから国の端にある村を守ろうとしてくれているが。
それがいつまで続くか分からない。
次の大将軍はカークだろう。
彼もゼス閣下の意志を継いでくれると思っている。
でもその次は?カークがいなくなったら?
私がいなくなったら?次の人は守ってくれる?
その確証を得られる気が一切しない。
だから次を育てているのだが…。
先のことは分からない。
「やれることをやればいいんじゃないか」
「やれること?」
「お前にはなにが出来る?」
「えーっと」
下を、正確には誓剣を見た。
自分で言うのもなんだが、頭が良い方ではない。
そういうことはカークか、コールマンあたりが得意そうだ。
コールマンの口の軽さは問題ありだが…。
私に出来ること。
国に降りかかる火の粉をこの剣で払うことくらいか。
それ以外には特に思い付かない…。
「その剣を振るう力だけか?」
「うん。これは訓練してきたからね」
「他にもあるだろ。お前にしか分からないことが」
そう言われても…。私の頭は良い方ではない。
騎士の中で言えば間違いなく下の方だ。
「お前は国境にいて、その土地のことを一切知らないのか」
「失礼な!少なくとも、ここに常駐してる騎士よりは…」
あ、そうか。
「国境の動きなら、分かる…かも」
「だったらそれを活用すればいい」
「…あなたって頭いいんだね」
「お前が馬鹿なだけだ」
いつだったかゼス閣下に、国境付近のことはお前に任すと言われた。
それは警備だけじゃなくて、そういうことも言っていたのか。
「もうちょっと注意深く見るようにしてみる。で、それを報告するようにする!」
なぜか私はやる気に燃えていた。
まぁ、今燃えても国境警備に戻されるのは先の話だ。
それでもこれまであった動きはもう少し詳しく他の騎士に話しておいてもいいだろう。
明日あたり、カークか…癪だけどワイアットの執務室へ行こう。
「で?」
「ん?」
「酔って人に絡むこととそれになんの関係があるんだ?」
「…………そういえば」
全く理由になっていない。
確かに酒を呑んでストレスを発散する理由にはなったが、人に絡む理由にはなっていない。
「ちゃんとした理由がないなら人に絡まないようにしろ」
「…多分、寂しかったんじゃないかな」
ふと、そんな理由が思い浮かんだ。
国境の配属されたとき、知り合いは誰一人いなかった。
毎日酒場に足を運んでいた記憶がある。
女性で誓騎士。好奇の目も少なくない。
街の人は私達に対して「軍人だ」と小さな声で囁き合っていた。
その予想をしていなかったわけではない。
彼ら国境の人々はいつも戦火に晒されてきた。
その状況を作った人達は都でぬくぬくと騎士に守られているのに、だ。
そんな気持ちになっても仕方がないだろう。
それでも、冷たくあしらわれ続けていると不必要に自分を責めるようになってしまう。
些細ないざこざを解決しようとそこへ乗り込んで行ったら矛先が全て自分に向けられたこともあった。
どんどん、自分は必要のない人間ではないのかと思い始めたのだ。
騎士がいなくても町民は自分達で身を守っている。
そう思いながらも、隣国に関する不穏な噂を聞けば国境に立ってしまう自分もいて。
二つの自分に挟まれていた時期があった。
今から思えば任務を全うしているのだと言い聞かせればいいだけの話なのだが。
それが出来なかったのだ。
ある時、通っていた酒場で小さないざこざが起きた。
騎士の私が仲裁に入っても「お前には関係ない」と突っぱねられる始末。
そこで私の中でなにかが爆発した。
騎士だから、と内に溜め込んでいた気持ちを外に出したのだ。
私がどういうつもりでここへきたか。当然、守りたいからだ。
今の軍部の大将軍は中心も端も関係なく守ろうとしている。
この国全土を守ろうとしている。
だから私が派遣されたと大きな声で叫んだ。
まるで議員が演説をするようだった。
その場はまるで水を打ったように静かになり、あまりのことに私はその場から逃げだした。
しばらく隠れるようにこそこそと見回りを続け、ある日、街人に捕まった。
そして、酒場での一件を褒められ、感謝され、謝られた。
過去の出来事から、彼らは私達を誤解していたらしい。
無理もないだろう。
ずっと都に利用されていたようなものだ。
直接的に被害を受けるのは決定権を持つ都ではないから。
それで、あの酒場の一件だ。
大層見直した、と言われた。
体裁を保つ為に騎士を派遣したのだと思っていたらしい。
それからの私は街に受け入れられた。
どこへ行っても嫌な視線を向けられることはなくなった。
隣の国との状況や、街で起こる様々なことを教えてもらい、それに関与することを許されたのだ。
もう、一人で酒を呑むこともなくなっていた。
酒場へ行けば皆が受け入れてくれる。
薦められるまま酒を呑み、二日酔いで見回りをしたこともある。
毎夜、酔っ払って街人とドンチャン騒ぎ。
兵士に咎められることもあったが、その兵士を巻き込んで騒いだ。
「そのときの呑み方が染みついちゃっててねー」
「迷惑この上ないな」
「まぁまぁ、おかげ出逢えたんだし!」
笑顔で彼を見るとあちらは溜息を吐いていた。
「俺は全く嬉しくない」
「なんで?普段なら絶対会えないよね。私とあなた」
「そうだろうな」
「でも出逢えた」
「だから俺は嬉しくないと」
「あ、もう五時半じゃん!」
「人の話を聞け」
眉間に皺を寄せた彼に「ごめんごめん」と謝って私は部屋を出ようと扉へ向かう。
そして、足を止めた。
「どうした、忘れ物か?」
「…うん、似たようなもん」
「なんだ?お前は手ぶらで来たはずだが…?」
「私、ヨウコ」
私がそう言っても彼はその場に突っ立っていた。
じっと私を見ている。
どうやら、こういう空気が読めないらしい。
「ロープも自己紹介するのよ」
「気が利かないわねー」
「うるさいぞ、羽虫ども。突然だったから答えられなかっただけだろ」
「絶対嘘よ」
「“だからなんだ”みたいな顔してたもの」
「ロープっていうの?ヒモみたいな名前ね」
「誤解されるような言い方をするな、アンテロープだ」
「隠者って呼ぶ人の方が多いわね」
「騎士たちは隠者殿って呼ぶわよ」
「あぁ!隠者ってあなたのことだったの!」
「知ってるのか?」
「カーク達が話してるのを聞いただけ」
「どうせろくなことじゃないんだろうな」
「まあ、それは人によりけりっていうか…」
「俺にとってはろくなことじゃないってのは想像が付く」
「アンテロープね、分かった」
「ロープでいいのよ」
「無理しなくてもいいのよ」
「あなたたち、私のこと馬鹿だと思ってるの?覚えられるよ、それくらい」
「こいつらは虫脳だからな」
「アンテロープ!覚えました!」
「虫に張りあってどうする…」
そうこうしている間にまた時間が経つ。
「あー!行かなきゃ!」
「さっさと行け。誰も止めてない」
「かわいくなーい」
「なーい」
「うるさい」
バタバタと宿屋を出て彼の部屋を見上げると、ちょうどそこから顔を覗かしていた。
両手でぶんぶんと手を振って声を掛ける。
「アンテロープ、ありがとう!」
大きな声で叫ぶと彼が顔をしかめた。
もう一度手を振って、中央区目指して駆けだした。