廊下の寒さに身を震わせて教室へ入る。
自分の席へ向かいカバンを置いて、マフラーを取りながらふと目をやった先に、誰だか分からない人。
そこは隣の席で、その席にはいつもと同じ人がいなければいけないのに。
私を見つめるその目はいつもの壁を持っていない。


「え…え、え、え!」


中途半端に取ったマフラーが床に落ちるのも気にせずに私は後ずさった。
それまであったものがなくなれば、当然違う印象を与えるもので。
彼の場合それは“可愛い”という方向に傾いた。
いつもより優しげな印象だ。


「マフラー落ちてるぞ」


そういうと日野は床に落ちたマフラーを拾って私に差し出す。
お礼を言いながら受け取って。
それでも目線は日野に向けたまま。
しばらくそのままで見ていたが、とりあえず席に座る。
そして彼に向き直って一気に捲し立てた。


「なんで、どうして、なにかあったの!?メガネは?コンタクト?」


「落ち着いてくれ、木村」


困り顔でそういうと、日野は説明してくれた。
大学に進学するからコンタクトに。
というわけではなく、ただ単にメガネが壊れたらしい。
生憎、スペアのメガネは塾に忘れていて、仕方なく今日はメガネなしで過ごすそうだ。


「一瞬違う教室に入ったかと思ったよ…」


日野は「みんなに言われた」と笑った。
それにしても、


「なんか全然印象違うねー」


「そうか?」


「うん。いつもはなんか冷たい感じするけど…」


そう言って、少し体を反らす。
そして全身を見てみた。
思った通り、


「なんか、可愛い感じ」


微笑んだ私に日野は複雑そうな顔を向ける。


「喜んでいいのか?それは」


「うーん。いいんじゃないかな」


私としては珍しいものが見れたので、満足だ。
もう一度、可愛い日野を見て笑顔を見せる。
だが、問題があるように思う。
彼の視力は確か破滅的に悪かったはずだ。
この席は後ろの方で、クラス単位の人数も多いし教室も広いから黒板からは遠い。


「日野、黒板見えるの?」


「いや、見えない」


日野が即答する。
今日の日直が誰かも分からないらしい。
まぁ幸いなことに今日の日直は私でも彼でもないのだけど。


「ノート、どうするの?」


「木村に見せてもらうに決まってるだろう」


日野は「なにを言っているんだ」とでも言いたげな視線を向けた。


「私のノート…?」


「あぁ、悪いが放課後にノートを貸してくれ」


「それは構わないけど」


“帰って勉強”なんてことはしないから持って帰ってもらってもいい。
だが、問題はそこではない。
好きな人に自分の文字を見られるというのはかなり緊張するもので。
しかも今日の授業は社会やら国語やら黒板を写す教科が多い。
どうやって時間配分をしよう。


「私の字、汚いよ?」


なんだったら他の誰かに借りた方がいいんじゃないだろうか。
それはそれで寂しい気もしたので、言わないでおく。
了承を得る程度でいいだろう。


「そうでもないだろ」


しれっとそう言った日野に驚いた。


「どこで見たの?私の字」


机は一つずつ離れている。
私の文字を見る機会などないはずだ。
そんなことを考えていると日野は黒板を指差す。
そこには“日直”と書かれていた。


「学級日誌で見た」


少し血の気が引ける。
よりにもよって一番汚い字で書いているものを見られたものだ。
学級日誌は放課後にちゃちゃっと書いてしまうため、粗末な字が並んでいる。
それは他の人も例外でないのだが、この男だけはなぜか綺麗な字でそれを綴っている。
結構几帳面だな、と思ったものだ。


「それは…なんていうか…。あれよりは綺麗な字で書くよ」


「俺は気にしないけどな」


私が気にするわ。
そう言おうかと思ったが、ちょうど担任が入ってきたので曖昧な笑顔を返して前を向いた。


授業が始まる。
こっそり日野を見てみると、目を細めて教科書を睨んでいた。
思わず笑いそうになって堪える。
それでも日野は気付いたらしく、そのままの顔で私を見た。
これがメガネ付きだったら怖いと思ったかも知れないが。
今は可愛いと思ってしまう。
教壇に立つ教師に見えないように、“ごめん”と手を合わせた。







そんなこんなで今日の授業が終わる。
今は放課後で、私と日野は人の少ない図書室にいた。
わざわざ本棚に隠れるような席を日野が選んで座ったので、私もその隣に腰掛ける。
きっとメガネがないのを見られたくないんだろう。


「別にノート持って帰ってもよかったのに」


「いや、さすがにそれは申し訳ない」


私のノートと自分のノートを交互に見ながら日野は言う。
忙しく手を動かす日野とは対称に私は手持無沙汰でキョロキョロと図書室を見回す。
辞書が置いてあるコーナーの近くで同学年と思われる男子生徒が勉強をしている。
窓際で本を読む者もいたが、この学校の図書室の利用率は低い。


椅子を少し後ろに引いて、適当な本を取った。
机に置いて広げてみるが、とうてい読む気にはならずにパタンと閉じる。
ハードカバーの本をひっくり返してみたり、机に立ててみたりしながらなにかすることを探す。


「ねぇ、日野」


声を掛けるが返事はない。
そのまま続けることにした。


「メガネないと見辛いんじゃないの?」


「まぁ、な」


「本当にノート持って帰ってもいいよ」


その方が写すのも捗るし、という意味で言ったのだが顔を上げた日野の目が少し寂しそうで戸惑う。


「俺と一緒にいるのが嫌なのか?」


とても寂しそうにそう呟くものだから、なんとも居た堪れない気持ちになる。
しかも今はメガネがなく、普段より柔らかい印象だ。
まるで自分が日野をいじめているような気持ちになってしまった。


「そ、そうじゃないんだけど。メガネがあった方がよく見えるから写しやすいと思って」


言い訳の様な言い方をしてしまった。
そんな私の反応を見て日野はフッと笑う。


「メガネがないのは確かに不便だけどな」


ノートから顔を上げてこちらを見る。
バッチリ目が合ったまま日野は動こうとしない。
それどころかなにも言おうともしない。
先に目を反らしたのは私で、用もないのにまた周りを見た。


いつの間にか人がいなくなっている。
貸出カウンターに図書委員らしき人はいたが、それ以外の生徒は誰もいない。
その図書委員らしき人も耳にイヤホンを差して本に没頭している。
人があまりこないからいつもそうしているのだろう。


「木村」


日野が私を呼ぶ、振り返った私は悲鳴を上げそうになった。
いや、実際は上げていた。
その声は全て日野の口腔に消えてしまい、くぐもった声になっただけだったが。

振り返った先には日野がいて。
当然のことなのに驚いたのは、予想していたより近くに日野の顔があったから。
私のそれから唇を離した日野は口元に人差し指を立てる。
静かにしろ、と。
一体どういうつもりなんだろうか。


「メガネがない方がお前に近付く理由が出来る」


そう言って口角を上げた日野。
危なくも目が離せない顔だった。
間近で見るそれは十分に私を魅了してやまない。


日野はふいっと顔を反らしてまたノートに向かう。
先ほどのことなどなかったかの様に。
平静を失った私の心臓はバクバクと音を立て。
聞こえるはずもないのに、貸出カウンターを見てしまった。
もちろん、私の心音が聞こえているわけないので、相変わらず本に没頭している。


まるで私だけ別の次元に行ってしまったような錯覚に陥った。
日野にキスをされたあれは白昼夢だったような気がし始めていた。
その思いとは反して、唇にはまだあの感触が残っている。
思わず人差し指で触れた。


それに加えて先ほどの日野の発言。
私に近付く理由が出来るというのはどういうことだろう。
もしかしたら。
しかし、期待するのはよくない。
裏切られたときに傷つくから。


それでも期待せずにいられないのは私が彼を好きだからで。
平然とノートを写しているその横顔にどうしたものかと視線を投げても、返って来るのはペンを走らせる音だけだった。






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