夏がきた。
自宅を出た瞬間に襲った陽射しに目を細める。
陽射しを照り返すアスファルトに足を踏み出し、前を向く。
そして、有り得ない姿を捉えた。
「久しぶり、洋子」
なんでここに、とか、なんで今更、とか思うことはいっぱいあるのに、私がとった行動は一つ。
逃走。
「なんで逃げるんだ!」
「いやー離してー」
慌てて自宅へ引き返そうとした私の腕を彼が掴む。
「やだね」
「離してくれないと、痴漢として訴え、」
「いきなり人にキスした奴がよく言うよ」
成歩堂の言葉に私は動きを止めた。
「あ、あれは…」
言い訳しようと口を開くものの、続きの言葉は出てこない。
「とにかく、立ち話もなんだから家に入れてよ」
私の了承をえず、成歩堂は玄関に向かう。
私の腕を掴んだままで。
「鍵貸して」
鞄に仕舞い損ねた鍵を手から奪い取られて、玄関は容易に私と彼を迎え入れた。
黙ったままの私と、勝手に上がり込む成歩堂。
「洋子」
ミュールを履いたままの私を成歩堂が促す。
私の家なのに、まるで自分の家のように言うな、と思いながら渋々ミュールを脱ぎ捨てた。
腕から圧迫感がなくなる。
代わりに手の平に成歩堂の手が滑り込んできた。
あまり広くもない家なのに、手を繋いでリビングまで連れて行かれて…。
「座って」
言われた通り、ソファに座る。
繋いだときと同じように、今度はスルリと手が離れた。
成歩堂は勝手知ったる顔でキッチンに向かうと、二人分のお茶を持ってくる。
そして、それをテーブルに置いて隣に座った。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
成歩堂がいれてくれたお茶を飲む。
「私の家なのに…」
「…嫌だった?」
「……………」
その沈黙は否定を意味していた。
「そういえば…」
黙ったままの私を特に気に留めた様子もなく、成歩堂は言う。
「あのとき、どうしてぼくにキスしたの?」
「…直球過ぎると思います…」
もうちょっと歯に衣着せるとか、オブラートに包むとか、遠慮とかしてほしい。
というか、なんだか性格が悪くなってる気がする。
「いいじゃないか。キスまでした仲なんだし」
にこにこと笑う成歩堂の口から出る言葉に刺々しさを感じる。
「やたらと強調するね、それ」
「キス、のこと?」
わざとやってるとしか思えない。
「まぁ、…それ、のこと」
しどろもどろに答えると、またもや成歩堂は、にこりと笑みを深くした。
なにを考えているんだろう。
恋人がいるのに、異性の家に来たりして…。
なにかあったらどうするんだろう。
…いや、なにかあるのは私の方か。
「ごめん、ちょっと意地悪してみただけ。洋子が可愛かったからね」
…本当なら嬉しい言葉も、嬉しくない。
「調子のいいこと言っちゃって」
「嘘じゃないんだけどな」
「彼女いるのに、そんなこと言ってていいの?」
「…“彼女”?」
せっかくの日曜日で、昼間っから私の家に来るくらいなんだ。
忙しい弁護士の仕事も今日は休みなのだろう。
だったら、恋人とデートすればいいのに。
「あぁ、真宵ちゃんのことか」
“真宵ちゃん”と言うのか、あの子。
「真宵ちゃんは彼女じゃないよ。亡くなった師匠の妹さん」
どうなんだか…。
「そういう洋子は、御剣と付き合ってるんじゃないの?」
「…は?」
成歩堂を見ないようにしていたのに、聞き返すと同時にそちらを向いてしまった。
彼は天井を見上げていた。
「御剣…?」
「あの時はびっくりしたよ。洋子と御剣が一緒にいるんだもんな」
成歩堂は続ける。
「御剣に、付き合ってるのか追究してみたけどあっさり否定されたよ。…で、真相は?」
「…付き合ってない」
「本当に?」
「本当に」
「どうなんだか…」
私と同じこと、思ってる。
「…御剣は、私に好きな人がいること知ってるし」
「好きな人…?」
当然ながら、口をつぐむ。
ムキになって勢いで言ってしまったが…言えるわけない。
あなた、だなんて。
「洋子の好きな人って…」
天井から私に視線を移して、成歩堂は言う。
「ぼく?」
目が合ったまま発っせられたそれに反応してカッと顔に熱が集まる。
それを冷ますように慌ててお茶を流し込んだ。
「…図星、か」
目を合わせないようにしている私に、彼は笑みを零す。
私は、否定も肯定も出来なかった。
「なにか言うことは?」
その問いにも答えず、俯いて沈黙を守る。
「沈黙は肯定の意味にとるけど…いいかな?」
腰に感じた違和感。
近くに感じる吐息。
慌てて成歩堂の方を見れば、
「近っ!」
先程より詰められた距離。
驚いて距離を取ろうとするが、それは腰に回された手によって遮られた。
「え、なに、なんなの?」
「今の今まで黙ってたのに、急に喋り出したな」
冷静に私を分析する成歩堂に若干の苛立ちを覚える。
「なに、どういうつもり?」
「なにが?」
なにがって…、
「この手と距離よ!」
「ああ、そんなことか」
……そんなこと…。
「どういうつもりもなにも、供え膳を食べるつもりだけど…?」
「“供え膳”…?」
「そう、供え膳」
それってつまり…。
「私…?」
「そう。洋子の事」
供え膳=私…?
「というわけで、いただきます」
「いやいやいや!なんでだ!?」
Tシャツに侵入しかけた成歩堂の手をピシャリと叩いた。
「…いたいなぁ、もう」
成歩堂は叩かれた手を摩りながらゴチる。
「なん、なん、なんで!?」
一体なにがどうなっているんだろうか。
さっきまでは何年も隠してきた恋心を言い当てられて、あわや告白か、と思ったのに。
「なんで、いきなり盛ってんの!?」
「いや、ほら、夏だし?」
「一体なんの関係が…」
「暑い夏、女の子は、皆薄着」
なんだよ、その標語みたいなのは…。
「というわけで、」
「待った!」
成歩堂は眉間にシワを寄せて、まだなにかあるのか、といった様子で私を見る。
「そ、そういうことは好きな人としたいでしょ…?」
「うん。だろうね。でも、洋子はぼくが好きなんだろ?」
「いや、まぁ、そう…なんだ…けど…」
しりすぼみなりながらも、はっきり言う。
今更、否定したところでなんの効果もないなら、いっそ言ってしまった方がいい。
「じゃあ、なんの問題もないね」
「異議あり!」
「異議は認めません。…と言いたいところだけど、一応聞いてあげようか」
「成歩堂は…あんたはそれでいいの?」
好きな人としたい。
そう言う私に彼は同意したのだ。
なら考えられる結論は一つ。
ただ、それは限りなく考えにくい結論。
「さっき、キミは“そういう事は、好きな人としたい”。そう言ったね?」
「い、言いました…」
「それはぼくも同じだ。そこから考えられることは…?」
「……………“成歩堂は、私が好き”…?」
しばしの沈黙。
ああ、否定されたら私の長かった片思いは終わりを迎えるんだな。
そしたら、新しい恋、しなくちゃ。
「……正解、だよ」
今まで見た成歩堂の笑みの中で、一番穏やかな笑みだった気がする。
「え…?」
「あれ、自分で正解を口にしたのにまだ理解してないの?」
「…成歩堂は……」
「うん」
「……私が好き?」
「うん、そう」
「…………両思い?」
「そうだよ」
「……………」
今…なんて言った?