一通目の手紙

 かり、こりと、木炭の欠片が紙の上で削られる音が鳴っている。それは虫の合唱に阻まれ部屋の外まで届くことはなく、欠片を手にした真珠と、その真後ろで見守るゲンの二人にだけ聞こえている。
 細い木炭を麻布のはぎれで包み、頭の先を出したもの。石神村では手に持って書く棒状のものを"ペン"と呼んでいたため、この原始的な筆記用具も同じくそう名付けられた。動物の毛など、素材を束ねて房にした部位がある場合だけ"フデ"になると聞き、教師役の羽京と共に感心した会話をゲンは思い出す。
 彼は退屈ではないが、身体も思考もほぼ使わずそこに座っていた。
 かり、かり、かり。真珠の右手が少し動く度に木炭は削れ、粉が文字となって紙に張り付いていく。ひらがなとカタカナをすでに覚え、あとは頭の中の音と文字を限りなく早く結びつけられるよう、ひたすら書き取る練習である。
 横に一行書き終え、真珠が小さく息をついた。腹部に灯る熱がわずかに動く。耳をくすぐる程に近い髪。何故勉強中にこうして抱きしめられなければならないのかと、彼女は改めて疑問に思った。

「……ゲン、どいて」
「えー何で?邪魔してないし、分かんないところがあったらすぐ教えてあげられるし、いいこと尽くめでしょ?」

 ぶにぶにと頬を押しつけられ、わずかに眉をひそめてこめかみで反撃。

「おっと」
「今、とても邪魔」
「ドイヒー。じゃあ離れるから代わりに手繋ぐのはどう?」
「どうやって紙を押さえるの」
「俺の空いた手がしてあげるよ。共同作業共同作業♪」
「…悪化してない?」
「まっさかー」
「……」

 呆れの乗ったため息が彼女の口から盛大に出て、それきりまた黙り込み、書き取りを再開していった。
 きっと百物語のどこかの一節が、拙い文字で少しずつ綴られていく。間隔を空けて書くのはもったいないからか、句読点とはまた異なる小さな線で単語を区切っているようだった。
 ゲンが真珠の左側に回るように動く。体重をかけ過ぎないよう注意を払い、肩に顎を乗せた。

「くすぐったい。髪の毛」
「メンゴ〜。でも利き手の方だともっと邪魔でしょ」
「もっと?そう…」
「あらら、こりゃ完敗だ。お邪魔しました」
「…………」
(んんん〜っ、俺ってばジーマーで愛されてるぅ)

 一旦は退散したゲンが、多少間を置いてから一房長い横毛を耳にかけ元の体勢へ戻っていく。先程の彼女の沈黙の意味を正しく受け取ったよと、彼にしてはめずらしく同じ沈黙で返しながら。
 かり、こり、かり。

「…真珠ちゃんは頑張り屋さんだねえ。宿題はとっくに終わってるんでしょ?」
「早く"カンジ"も覚えたいから」
「何か、目標とかやりたいこととかあるの?」
「そう」
「そっか。じゃあそれが達成出来たら俺にお手紙書いてくれる?」
「……」
「あれっ、嫌?」
「そうじゃない…」
「うん?」
「……」
「真珠ちゃんの思ったこと、ちゃんと聞きたい」
「……言いたくない」
「えっ?」
「あ、えと、その…」

 いつしかペンの音はやんでいて。真珠は初めてすぐ隣の彼に目線を向けた。

「……ああはいはい、今はまだ内緒にしときたいってことかな?」
「あっ、そ、それ」
「オッケーオッケー、だったら了解。楽しみにしとこ」
「…ゲン…あの、分かった…?」
「何が〜?」
「……あなたは優しいね」
「そう?ま、でも真珠ちゃんに対しては間違いないか」

 体全体を包むために、彼の両腕がごそりと動く。

「今日のお勉強はここまで。いいでしょ?」

 縦の振動が伝わるとほぼ同時に背筋を正し、彼女を勢いよく引き寄せた。机に向かう前傾気味の体勢を大きく崩され、なすがまま全体重を彼に預けることになり、真珠が小さな悲鳴を上げる。

「ハーイ目閉じようね〜」
「やっ…」
「お疲れ様のチューしようよぉ」
「しないっ」
「わっとと、倒れる倒れる!ほら、どうどうどう…」

 軽い揉み合いの末、向かい合って真珠が収まることで落ち着き、すっかり機嫌を損ねて睨みを利かせる彼女をゲンが笑顔で受け流すという、お決まりの姿になっていた。

「…手紙、他の人に書こうかな」
「そっ、それはダメ!真珠ちゃんの"ハジメテ"は俺以外に捧げちゃダメなの!」
「え……」
「…い、今のはいわゆるツッコミ待ちってやつなのよ、真珠ちゃん」
「……」
「謝るからそんな引かないで…メンゴだってば…」
「…私が言えたことじゃないけど…あなたは特に、変な言葉を使わない方がいいと思う」
「ううごもっとも…。あー、それじゃあね、ちゃんと言わせて?もう一回」

 両肩に手を添えられ、反射的にうつむいてしまった彼女が再び顔を上げるまでの時間は長く。
 うっとりと瞳を細め、愛しさを惜しげもなくさらけ出すこの眼差しに一体どれだけ心をかき乱されてしまうか。その衝撃はすでに彼女の頭頂からつま先まで染み込んでいるのだ。

「真珠ちゃんの一通目のお手紙は、俺宛に書いてほしいな」
「っ…」

 ぎゅ、と胸の前で握った両手にさらに力がこもる。その奥から響く鼓動に意識が呑まれないよう、彼女は必死に眼差しに縋ってうなずいた。

「ぃやった〜〜〜!真珠ちゃんだーい好き!ジーマーで楽しみにしてる〜〜〜っ!」

 一度両腕を水平に広げきってから、ゲンが勢いをつけ真珠を抱きしめる。結局呑まれる先は彼となり、彼女はもう何も言えず、何も動けず、彼の気が済むまでその愛情表現を受け止めることになった。
 そして。
 数日も経たないうちに何の前触れも無く"それ"を渡され、彼は誰の目にも触れない物陰で大粒の涙を落としたという。


ゲンへ
 おげんきですか?
 まだ かんじはぜんぜんおぼえてないけど、手がみをかきます。
 いつも やさしくしてくれて、ありがとう。あなたがいるまい日は、とてもしあわせで、ときどき こんなにしあわせでいいのかなって、おもってしまいます。
 あなたみたいに たくさん好きっていえなくて、ごめんなさい。とてもむずかしいです。でも、ちゃんとつたえられるよう がんばりたいです。
 からだにきをつけてください。では、さようなら。
真珠より






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