いざよいを超えて

(………眠れない)

 起き上がり、ため息を一つ。とうに雪は融け、草花も育ち切って久しいというのに、今夜は肌寒くて仕方がない。

「はぁ…困ったわ…」

 視界も普段より明るく思える。目が冴えたままの証拠だった。
 とにかくまず寒さをしのごうと、ミカゲは畳んで置かれていたもう一人分の寝具に手を伸ばし、乱雑に広げた。被る前に正面から抱きしめる。
 ほんの微かに感じる本来の使用者の残り香が、今は不安な気分を後押ししてしまう。

「…千空」

 夫の名を呟き、さらに力を込めた。彼はこの五日間自宅に戻っていない。今行っている製鉄作業は多くの者が日夜通して勤めているため、責任者である彼もなるべく現場に留まっていた。
 一時期根を詰めるのはどうしても必要なこととして、その中でもきちんと食事や睡眠を取っているだろうか。体調を崩していないだろうか。一度考え始めれば、無価値なはずの憂い事がいくらでも湧いてくる。やがてそれらは質量を持ち、地面の冷えと共に彼女の芯に迫りくる。
 両親を一度に喪い、独りで泣いた日々が思い出の中から這い出していた。

「っ…!」

 まだ体温を吸っていない上掛けにさらにしがみつき、そして投げた。動揺したままミカゲが立ち上がり、家を飛び出す。遠くに灯る製鉄所の薄明かりが、それでも彼女をずいぶん慰めてくれた。
 まるで追手から逃げるかのように、彼女はその明かりに向かって走っていった。
 いわゆる勝手口の位置を探し当て、気配を消して建物に忍び込む。正面の作業場は昼間とほとんど変わらず騒々しかったが、それ以外の照明は落とされ人の行き来もないようだった。

(ここにはいない…)

 働く人々の顔ぶれを遠くから確認した後、彼女はさらに奥へと進んでいった。
 込み上がる罪悪感。それでも足は止められない。次の目的地である休憩室まで辿り着き、何度も深呼吸をして息を整えた。
 時間をかけ、音を立てないように扉を開く。闇に馴染んだ両目は予想通りの光景を見せた。おそらく四人、が布にくるまり雑魚寝をしている。すぐに判別出来たのは、手前の床に転がるクロムだった。ならば、目当ての人物である千空も残りのいずれかの可能性が高いだろう。
 ミカゲがそろそろと部屋に踏み入る。密度は低いため、歩むこと自体は難しいものではなかった。一人、また一人と顔を覗き込み、最後に奥で横たわる特徴的な髪型についに気づく。

(あぁ…千空…!)

 彼は唯一床ではなくソファを使っていた。ミカゲが駆け寄りしゃがみ込む。こうしてじっと動かず眠る彼をただ見つめているだけで、身体から嫌な力が溶け出ていくのが分かる。
 それでもやはり、心の芯にまとわりつく冷たい不安は拭いきれなかった。だから彼女はつい手を伸ばしてしまった。無防備な頬にそっと手の平を乗せ、五日ぶりの確かな温もりに、とくりと心臓が新たな熱を生んでいた。

「……ん…」
「!」
「…あ゙…?ミカゲ…!?」
「せ、せんく、しぃっ」
「いや、テメ、何でここに…!?」

 目覚めた千空は驚き、それでもきちんと物音を抑えて身を起こした。代わりに全力で訝しげな視線を送り、彼女が理由を言い出すのを待っている。

「……」
「緊急事態か?」

 ミカゲが静かに首を振る。千空は手を差し出し、彼女を自分と同じくソファに座らせてやった。

「……ごめんなさい、その…どうしても顔が見たくなって…」
「……」
「それだけ、それだけなの。もう戻るから…!」

 動こうとした彼女の肩を掴み制する。暗闇に慣れた今、すぐそばの表情がよく見える。自身の行動を恥じ、眠りを妨げた申し訳なさでいっぱいになっている。そして、その奥に隠しきれない寂しさを抱えていることも、今の彼には容易く感じ取ることが出来た。
 自然と右手が動き、ミカゲの頭を撫でていた。

「んっ…」
「帰るか」
「…いいの?」
「独りに出来っかよ」
「………あり、がとう…」

 ようやく彼女が微笑む。手を頬に移動させると、嬉しそうにまぶたを下ろし、すり寄ってくる。このまま抱きしめたい衝動に駆られたが、今居る場所を思い出し、千空はふうと大きく息をついた。
 動作に注意してゆっくりと立ち上がる。ミカゲの手を引き、休憩室を後にして黙って歩く。作業場付近まで戻ってくると彼女を離れたところで待たせ、単身人だかりに近づき声を上げた。

「あ゙ー、今日はウチ帰って寝るわー!」
「あっ、うーっす!お疲れ様っす!」
「……ん、じゃあ裏口から出んぞ」
「……」

 小さくうなずいたきり、帰路の間彼女はずっと顔を上げずに黙り続けていた。かける言葉が見つからなかったから、千空も何も発さずただただ足を動かした。
 五日間家を空けたことを反省するべきか、彼は結論を出せずにいる。彼女に心細い思いをさせてしまったことは事実だが、船が完成すれば、もっと過酷な現実を突き付けなければならないのだ。
 互いに耐えるしかない。どれだけ苦しくとも。そして、彼女は彼女なりに折り合いをつけようと必死にもがいている。その中で、助けを求めて駆け込んだ今宵の行為は決して悪くも弱くもないことだと彼は思った。
 自宅に到着し、千空が小さな電球のスイッチを入れた。ゆるやかに唇を締めるミカゲが暗闇に浮かび上がり、彼の挙動を見守っている。

「後ろ、向いてみろ」
「?……こう?」

 従う彼女の背は自信なさげに丸まっていて、らしくなくて。今が返す時だろうと確信した。
 激励の意味も込めて、ぽんと一度軽く打ってから、広げた手の平をしっかり押しつけた。

「きゃっ」
「ちゃんと頼れたし言えたじゃねえか、ミカゲテメーはよ」
「…迷惑じゃなかった…?」
「アホか。気まぐれワガママ令嬢とは状況が違うわ、まるっきり」
「…ん。……あ、やだ、ちょっと」
「オイ逃げんなよ。傷つくぞ地味に」
「くすぐったいの、あなたっ、その手つきっ…!」
「変わんねえだろ、テメーのと」
「ちょ、待っ…もう、全然違うってば!こうよこう!」
「おあ!?テッメ、腋はやめっ…!」
「あはは!……はー、もう静かに、ね?」
「へーへー。お立ち直り下すって何よりだわ」
「ええ…ありがとう、千空」

 少しだけ見つめ合い、それから一歩踏み込んで抱き合う。

「朝まで温めてくれる?こうやって」
「そりゃ構わねえが、マジで寒ぃなら湯たんぽ出すぞ」
「…あなたってほんと…誠実な人ね」
「は?」
「湯たんぽはけっこうよ。あなただけがいい」

 ミカゲが優しく瞳を細めて言う。もう一つの熱をもらおうと、両の踵がそっと浮き上がっていった。



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