君と私で1/365〜春眠

 今日は久しぶりに二人の休みががっちり合う日だ。時刻はまもなく午前10時。少し遠くの公園で開催されるフリーマーケットを覗いて、ランチを食べて、期間限定の企画展示を見るために科学館を訪れるというスケジュールだ。
 ぴんぽんと、千空宅のチャイムを鳴らす。返事がない。てっきり扉一枚隔てた向こうで待機していると思っていたから私は首を傾ける。もう一度ボタンを押してもやっぱり出てきてくれず、スマホを出し、連絡が来ていないことや日時を間違えていないことを念入りに確認して、鞄を漁り合鍵を出した。

「もらっててよかった、鍵…」

 彼の身に何かあったのではと手先が冷たくなっている。だって約束を無断ですっぽかすような人じゃないもの。

「千空、いる?千空…!?」

 短い廊下を走り、リビングの戸を引いた。
 そんな私の目に飛び込んできたのはまぎれもない家主の姿。身支度を終えた千空がソファに背を預け、上を向いてぽかりと口を開けていた。
 ほんの一瞬だけ息を呑んでしまったけど、すぐさま異常はないと彼の雰囲気から読み取れた。これは単純に居眠りをしているだけだ。
 私を待つ短い時間で寝落ちてしまったらしい彼は、何とも間の抜けたご尊顔を晒している。整った各部位の造形に女の私より長そうなまつ毛。いつも通りかっこいいのに唇は無防備に半開き。怒る気なんて起きない。千空は忙しい。何より今日の陽気は優しすぎる微笑みをたたえた仕事人だ。私だって少しだけ寝坊した。

「……かーわいい」

 目の前まで歩み対峙して、そんな呟きが漏れていた。寝顔なんてなかなか拝めないし、そういう時は私だって眠いし。
 手を後ろで重ね、あらゆる角度から一通りじろじろ観察し、しばらく起こすべきか悩んだ。私としては予定を大幅に変更して寝かせてあげても全然構わないけれど、彼はきっと約束を反故する結末に納得しないだろうから。
 繰り返し言う。怒ってなんかない。でも驚かせてやりたい、どうせなら。
 私は慎重に動き、片膝をついてソファに乗り上げた。千空の耳元までそーっと近づいて、これまた密やかに息を吹きかけた。

「せんく…」
「……」
「朝だよぉ…遅刻しちゃってもいいの…?」
「……ん…」
「起きないとチューしちゃうぞぉ……んっふ」
「……」
「んっふふ…くくく…」
「……珪テメー…やんならやり切れバカ」
「起きたー?おはよ」

 だめだ。茶番とはいえこの二人でこの言い回しは滑稽なだけだ。最初の呼びかけですでに目覚めていただろう千空も、呆れつつ肩と唇の端を確かに震わせている。
 思うような結果にならなくたって、彼の寝顔が見られてすでに満足している私にはまったくどうでもいいことだし、そもそも滑稽って楽しいことなんだし。

「あ゙ークソ、しくった」
「いいよ、鍵あったし。昨日も遅かったの?」
「いつも通り」
「なら春のせいだね」

 千空が動き、私の腰に手を添える。にこりと笑って頬を撫でた。

「起きたけどチューしよ」
「あ゙ぁ?」
「心配させたから」
「チッ。オラよ」
「えっ舌打ち?ひど」
「違ぇわ。しねえんなら下りろ」
「する、する。…んーーーーっ」
「………テメ、長っげえ」
「ねえ何で舌打ち?ねえ?」
「"心配"。約束あって一瞬でも音信不通は笑えねえだろ」
「そっかあ、でもいいよ、そんな深刻にならなくて。さ、じゃあ改めてしゅっぱーつ!」
「シンコー」
「茄子の〜?」
「走んぞ、ビミョーに電車逃す」
「ちょっと!乗るなら最後まで乗ってよ!」

 ぷりぷり怒ってみたけど、千空の言うことは事実なんだろうなと急いで鞄を肩にかける。靴を履いて、鍵をかけたのを見届けて、先導するどさくさに紛れて手を繋いでやった。
 階段を降り一階エントランスで住人のおばさんとすれ違っても振りほどかれることはなく、私は浮かれた声で挨拶を口にしたのだった。






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