ジン・ライム・ドリーム

 俺の好きな女の子は千空ちゃんが好きだった。仲間以上の関係にはなれないだろうと悟りつつも、その心を静かに愛で、じっと機を窺う子だった。
 ふとした時に切り替わってしまう眼差しに気づいているのは俺だけがいいなあ、なんて思いながら、ある日彼女に無遠慮に話しかけていた。

「千空ちゃんて、目が離せなくなっちゃうよね、ジーマーで」
「そうだね」
「……」
「……何か用?」
「断ち切ってあげよっか?」
「えっ」
「俺はマジシャンだからね。切るのも隠すのも消すのも大得意♪」

 彼女は呆気にとられ、しばらくして今の会話の真意を理解し、はっと顔を逸らした。けれど、それから時間をかけ、想いを暴かれた焦りから秘密を共有してもらえた安堵の表情へ移っていく。俺はその様を一コマも逃さず、記憶の箱の一番隅に刻みつけていた。
 "繋いであげようか"、じゃないのにちっとも怒らない。嬉しいなんて一切ないけれど、哀しい、に至るまで感情が傾かないのもまた事実だった。

「…いいよ、まだ」
「まだ?」
「最後の手段かなって」
「オッケー♪」

 ちらりともう一度千空ちゃんを盗み見た後で、まばたきと共に彼女は俺を選ぶ。

「ありがと、ゲン」
「なんのなんの。いつでも相談に乗るからね、珪ちゃん」
「まあ、必要になったらね」
「お待ちしてまーす」

*

 結局珪ちゃんが相談に来ることはなかった。誰の関係も何一つ変わらず、千空ちゃん率いる科学王国…いや、俺たち人類は石化の元凶をついに退け、本格的な復興への第一歩を踏み出すことになった。
 今後俺は各機関の調整役として世界を巡る予定だ。やだなードイヒーと駄々をこねてもみたけれど、半分以上はお約束の振舞いということで。
 新しい時代への期待と同時にこれまでのやり残しが頭によぎる。関係と同じく何も変わらない俺の気持ち、珪ちゃん。
 彼女みたいに立ちすくんでいた訳じゃない。条件を定め、順番待ちをしていただけだ。でもまあ、時間いっぱいってやつでしょ。ロスタイム突入は流石にノーセンキュー。
 さて場を整えましょうかねと情報を集めていると、虫の知らせというやつなのだろうか、何と向こうから連絡が入ってきた。彼女は二人きりを希望したので、すかさずオープンして間もないバーフランソワ五号店を押さえておいた。
 当日現れた珪ちゃんは既製品のワンピースに袖を通し、ほんの少しお化粧を施していた。俺も同じく購入した長袖のTシャツに黒ズボン。雰囲気のあるバーにTシャツはNGって?そんな世の中になるのはまだまだ何年もかかりそうかな。

「ちょっとぶりだね、珪ちゃん。元気してた?」
「うん。忙しいのにごめんね」
「なーに言っちゃってんの!俺と珪ちゃんの仲でしょ」

 彼女が薄く笑う。
 こうして独り占め出来る時間はいつ以来だろう。ただ、世界一周を終え日本で再会して以降、遠く離れることはなかった。だから俺たちに積もる話はない。それを証明するように、彼女はもう本題を切り出す。

「報告しようと思って」
「うん?」
「最後の手段、使わずにすんだよ」
「!」
「ちゃんと伝えて、ちゃんと振ってもらえた」
「………そっか…長かったね、頑張ったね」

 こくりとかすかにうなずき、そのままうつむいて動きを止めた。長い沈黙。その間に店主は俺たちの前から姿を消した。
 じりじりと照明のノイズ音が数回耳に入って、珪ちゃんが顔を上げる。その瞳は潤んでいたけれど、涙には少しだけ足りない量だった。

「何年も…そんな気のない奴に変な目向けられて……迷惑、かけてたかな…」
「それはない…それはないよ、珪ちゃん。全部終わったから言っちゃうけどさ、千空ちゃんは皆の眼差しを、みんな同じに受け取ってたよ…」
「……」
「メンゴ、ドイヒーなこと言ってる」
「ううん…だったらいい…」

 グラスに入ったお酒がまた少し減る。頃合いを見て、お冷と位置を取り替えた。

「お水も飲みなね」
「ん」
「きれいさっぱり、大丈夫そうね」
「そうだね。あなたに話して、最後の一滴が流れ出た感じ。……そもそも、もう数滴しか残ってなかったと思う」
「その数滴は勝手に干上がったりしないの。だからちゃんと決着つけた珪ちゃんはえらい」
「…うん、ありがと」
「どういたしまして。それでね」

 間を繋ぐ話題なんて必要ない。条件は満たされた。

「使わなかった最後の手段だけど」
「…なに?」
「マジシャンはね、何にもないところから何でも生み出すのが一番得意なの」
「……」
「どう?興味ない?」
「……」
「ちょっとは気づいてたでしょ?俺の"変な目"」

 だって、ほんのちょびっとずつ直接見せてきたもんね。
 気のせいで片付けていた今の内容をいくらか思い返しているのだろう。珪ちゃんは遠いどこかを眺めている。そして我に返り、これまでよりさらに複雑に眉を歪め、慌てた身振りを伴い口を開けた。

「そ、それはっ……でも、そりゃあ、今はきれいに片がついた状態だけど、でも…。今日会ったのだって、ちゃんと報告しなきゃって、それだけで…何か期待した訳じゃ…!」
「ストップ。大丈夫、分かってるよ。俺だって傷心の女の子に誰彼構わずすり寄りたい訳じゃない。もっと単純な話。口説き落としたい。誰でもなく、君をね、珪ちゃん」

 あぁ、こんな可愛い顔、初めてだ。最初の石化が解けてから誰にも晒さなかった顔だって信じてる。

「ここまで待ったのは…まあ、俺も千空ちゃんに惚れ込んでたからかなあ。あ、もちろん一人の人間としてって意味でね」
「……」
「ふふ、脈アリだし後ろめたさも持ってる」
「っ」
「千空ちゃんとお話ししたのは昨日今日じゃないんでしょ?整頓期間も終わって、次へ歩み出してもいい時期だと思うけどな〜」

 惚れたは事実だけど、理由としては真っ赤な嘘だよね。
 そっちの事実は、蕾のままの恋の花を自らの手で刈り取ってほしかったから。彼の眼差しが変わる予兆が終ぞ表れなかったから。漏れ出て隙間が出来た彼女の心に、俺という名の雫がぽたりと垂れた瞬間を鮮明に思い出せるから。
 珪ちゃんが体の向きを正面に戻し、カウンターに組んだ腕を置いた。むすっと不服な表情になっているけれど、降参させてよって、そんな風に請うているようにしか思えないや。違ってたらメンゴね。微塵も申し訳なさは持ってないけどね。

「…経験が、浅いもので」
「可愛い」

 無防備な右手を覆い込んでから持ち上げた。反射で逃げようとするのを引き止める。自ら判断出来る猶予を。それが過ぎてから、自分の口元までまとめて運び、ちゅっと音だけ立てて微笑みかけた。
 あぁ、さっきから一番可愛いがどんどん更新されていく。

「それじゃ、愛される喜び、俺が教えたげる。息つくヒマなんてあげないからね」

 雫を集めた液体がとぷとぷと彼女に注がれていく。この場でさっさと溢れてしまえばいい、なんて心の中で呟きながら、瞳をずっと見据えたまま今度こそ唇を寄せた。






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