泡弾ける

「羽京ー!先行くよー!」
「あー待って珪ちゃん!一人は危ないよ!」

 どぼんと豪快な水音が上がる。急いで上の服を脱ぎ捨て、そう高くない崖の真下に珪ちゃんがいないことを確認してから僕も飛び込んだ。全身が一気に冷やされ、そして馴染んでいく。
 "羽京は海が好き"と改めて認識されてから、僕たちは時々ここに遊びに来るようになった。もちろんただサボるだけはダメだし、彼女に漁のコツを教わって、食材や素材になりそうなものを獲っている。僕が、村で育った自分と同じぐらい潜れると知り、彼女は最初とても驚いていた。確かに、今まで接していた復活者が千空とゲンだけなら、そりゃあね。
 珪ちゃんは早速岩に張り付いた海藻をナイフで切っている。僕も負けじと中身も殻も使える貝を探し回り、腰に着けた籠に投げ入れていった。
 ひとまず言い訳が立つ程度を集め終え、日の当たらないところにしまい込んでから、二人で顔を見合わせにいと笑った。
 先日この辺りを案内してもらった時に打ち明けられた。珪ちゃんはこうして海に潜ることがとても好きだそうで、でも村の女の子たちにはあしらわれてなかなか堪能出来なかったという。だから進んで付き合ってくれる僕という存在を得て、これまでの我慢を全て解消しようと明らかに歳不相応にはしゃいでいた。そんな姿はとても可愛くて、僕以外の誰にも見せたくないなって思う。
 泳ぐ時って、どうしてか会話がなくなる気がする。波音や水しぶきに遮られるからなのか、今身を浸すこの空間に音声は異物なのだと本能が判断するからなのか。
 珪ちゃんがきらきら輝く水滴を纏い、一度にっこり笑んでからとぷりと水中に消えた。僕も大きく息を吸い込んで続いた。
 ずっと底まで透き通り、太陽の光を受けて一瞬も同じ様はない光景。僕に大した語彙が備わっていないことを悔いるぐらい、どこまでも美しい自然の恵みだ。その中で、彼女がこちらを見てたゆたっている。何もかもが尊くてきれいなもので構成されている、と思った。
 彼女が僕の方を向いたまま、ぐんと手足を動かして移動を始めようとする。遠のいてしまう、僕から。そんな風に感じてしまって、とっさに腕を伸ばしていた。

「…!?」

 そうしたら、案外距離が近かったのか、僕のひと泳ぎが長かったのか、簡単に珪ちゃんの腕を掴めてしまい、それで彼女は驚いてごぼりとたくさんの泡をはき出した。
 しまったと血の気が引いた時にはもう、彼女は動揺で顔を歪めていた。とにかく水面へ出ようと強引に腰に腕を回して両足を蹴る。流石は水の民で、余分な抵抗はされなかった。
 新しい酸素を取り込んだ珪ちゃんは、僕に支えられながら何度も咳き込んだ。

「ごめん珪ちゃん!水飲んでない!?」
「ゲホッ!……ん、だいじょぶ…」
「とにかく戻ろう!このまま掴まって!」
「や、この程度、普通に泳げるから…」
「無理しちゃダメだよ…!」
「掴まる方がしんどいってば。横につくだけでいいよ、ほら行こう」
「う、うん」

 せめてと先に岸に上がり、納得しない表情を無視して引っ張り上げた。地面に座り込んでようやく一息つく。顔に滴る水を手の甲で拭い落としてから、彼女はじとりと僕を睨みつけて言った。

「そんなに危なっかしいの?私」
「そうじゃなくて!…単純に離れないでほしかっただけだよ」

 今度は目を丸くして止まる。けれどさほど間を置かず、ぷいとそっぽを向いてしまった。

「…羽京ってさ!すぐそういうこと言うよね!意外と女の子を侍らせたいタイプみたいだし!?」
「はっ!?」
「別に、いいけどさあ…コハクに迫るのはやめときなよ。知らないからね、拳、飛んできても」
「待って待って!誤解だよ!てか周りにそんな風に見られているの、僕!?」
「……」
「誰かが言ってたの?だったら今すぐ説明に行くから。教えて」
「い…言ってない…聞いたことない…」

 彼女の返答に胸を撫で下ろす。衝動的な言葉のようで安心した。でも。

「男の中では話しかけやすい部類だって自覚はあるよ。でもそれだけ。僕から迫るなんて、そんなこと…」

 隣にいてほしいのは君だけなのに。

「……」

 表情が再び曇っていく。

「じゃあ…無意識でやってるの?だったらちょっとタチ悪いかなあ…」
「!」

 そういうことか。やっと理解した。
 彼女への好意を努めて隠していたつもりはない。なら、容易く二人きりになれる今の環境下でも同じままでいれば、以前より伝わるものが一気に増えて当然だ。その中で、君から送られる"まだ確定していない眼差し"を楽しみたいなんて、弄ぶ以外の何の表現が出来ようか。
 腹を括る時だ。

「ごめんね、珪ちゃん。説明させてくれる?」
「う、うん…」
「僕ね、君が好きなんだ。向こうにいた時からずっと」
「!!」
「好きだから二人きりになりたい。たくさん話して僕の目を見てもらいたい。どこにも行かずに僕のこと好きになってほしい。そんなこと考えながら接してた」

 この位置からでも分かるぐらい、彼女の両頬が真っ赤に染まっていく。待ってた、この瞬間を。これまでのことに何も後悔はない。

「君だけだよ、迫るのは。他の女の子にはしない、決して」
「……そ、そういうこと、だったんだ…。…その、あの…」
「うん」
「……」
「聞きたいな、返事」
「……」
「侍らせたがる僕に機嫌を悪くしたのはどうして?」
「っ」

 じりじりと、うつむいた珪ちゃんに気づかれないよう少しずつ近づいていく。彼女は恥じて何度も身をよじり、やがて下を向いたままぽそりと。

「……だって……好きだから…羽京が」
「ほんと?嬉しいな。ねえ、珪ちゃん、僕のこと見て…」
「え?うわっ!」
「わっ」

 刺激しないよう最後はほとんど四つん這いになって覗き込んだのに、目が合ったとたん払うように拒まれてしまった。

「ダメ?」
「ふ、服!」
「へ?あっ、あっごめん!無神経だね僕!着替え取ってくる!」

 指摘されて初めて、自分が上半身裸であること、珪ちゃんも水着代わりの露出の高い格好であることを思い出す。急いで立ち上がって走り出し、そのさなか、眉を中央に寄せかつ唇を噛みしめてにやけるという、一人たりとも知られたくない笑みを浮かべてしまっていた。
 珪ちゃんに好きって言ってもらえた!僕が伝えるより前に、珪ちゃんは抱いた気持ちに気づいていた!
 ああ嬉しい。ほんの少ししか走っていないはずなのに、足を止めてそれなりに経つのに、僕の心臓は激しく轟きっぱなしだ。これまではただここを温めていただけだったけど、これからは彼女に燃やされるんだ。なんて苦しくて、なんて幸せな日々の始まりだろう。
 脱ぎ捨てていた上着を被り、彼女の服を丁寧に持って来た道を戻る。肌を晒すのが恥ずかしくなってしまったのか、彼女は自らを抱えるようにして小さくなっていた。

「ごめんね、お待たせ。あっち向いてるから」
「ん………いいよ、羽京」
「うん。じゃあ、行っていい?隣」
「…うん」

 腰を下ろす時にわざと肩が触れ合うようにしたら、予想通りぴくりと可愛い反応が返ってきた。それでまた胸の奥がきゅんと締めつけられる。このまま手を重ねたらどうなるんだろう。急く心を深呼吸で落ち着かせ、僕は口を開いた。

「嬉しいな、珪ちゃんも一緒の気持ちで」
「……知ってたんでしょ、どうせ」
「んー、一応、何となくそうかもってだけだよ」
「……」
「ねえ、いつから好きになってくれたか聞いてもいい?」
「え?」

 やっぱりもう我慢出来なくて、すぐそばの小さな温もりを覆って握った。

「っ、羽京…」
「あはは、思ったより舞い上がっちゃってるな、僕。だって、ずっとこうなりたかったから」
「…やっぱり慣れてる」
「そういうんじゃないってば!ほら聞いてよ、これ!」
「!?」

 温もりを取り上げ、左の灼熱に導いていた。布越しなのにめちゃくちゃ気持ちよさを覚えてしまって、ほんの少しの後ろめたさとそれよりはるかに大きな浮かれなんてものを感じて。

「ね、ドキドキしてるでしょ。……珪ちゃん?」
「……」
「……えっと」
「もーっ!羽京のスケベ!バカ!調子に乗らないで!」
「わっ、ごめん、全部その通りです」
「言わなくていいの!」
「あはは、ごめんね。…その、嫌いにならないでもらえると有難いな」
「……他の女の人に鼻伸ばしたら嫌いになる」
「だから誤解!それは!」
「そう思わせた時点でなの!」

 ぷりぷりと湯気を吹き出し珪ちゃんが凄んでいる。全然怖くなくて本当にたまらない。僕の手を振りほどこうともがくけどあんまり非力で、制止するだけで傷つけてしまうんじゃないかなんて思ってしまった。

「珪ちゃん、じっとして?」
「っ…」
「さっきも言ったよ。迫るのは君だけ。僕からもお願い。君だけだから、受け止めてほしいな」

 伝わるようにじっと見つめて。誓うために、握り込んだ爪の先にそっと唇を当てた。

「たくさんドキドキしようね、一緒に」

 早速実践してくれたことを、末端まで熱を巡らせ僕に教えてくれたことを、この先僕は何度だって思い返すんだろう。






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